毎年、大学入試は過熱する。経済協力開発機構(OECD)加盟国平均の大学進学率は45%だが、韓国は依然として70%水準だ。修学能力試験(全国一斉に実施される大学入学共通試験)の100日前から親たちは寺や教会を訪ね、「合格を祈願」する。子の大学合格こそ人生成功の尺度!これこそ「n浪」が増える理由だ。学校も学校だが、塾は率直に言って試験のおかげで成り立っている。大きく見ると、学校、塾、宗教は私たちの不安と恐怖を食べて生きる血盟関係といえる。
興味深いことに、かつては学べなかったことがわだかまりとなった親が、牛を売り、田んぼを売って子の教育にすべてを賭けたとすれば、こんにちの親は大多数が大卒者であるにもかかわらず、依然として子の入試に必死だ。私たちの幸せをむしばむこの奇異な現象の根源とは、いかなるものか。
どう考えても、韓国では出身大学のレッテルが一生ついて回る。誰かと初めて会えば名前と住んでいる場所、年齢と出身大学を尋ねる。露骨に尋ねなくても直接・間接的に聞いてくる。私的、個人的関係においてさえそうなのだから、公的、組織的関係では言うまでもない。私が市民講座のようなところで講義する際にも、履歴書の提出が求められる。学歴、学位、地位が時間当たりの報酬計算の基準なのだ。これについては誇りを感じる人より傷つく人の方がはるかに多いだろう。
まさにここで分岐が生じる。何に? 私たちの態度と現実にだ。どのように? もし私たちがこの繰り返される構造的な傷のメカニズムを「もういやだ!」と言って社会的に決断し、大学の序列化と職業の序列化の打破に立ち上がれば、10年か20年後には序列構造ではなく水平構造を作ることができるだろう。そのような社会があるのか? ある! 脱差別、脱権威を唱えた68年革命後の欧州社会を見よ。ドイツなどの欧州の大学はいわゆる「一流大学」の概念がない。職業間の差別も米国や韓国に比べて少ない。農業者やレンガ工、組立工や配管工が、教師や医師を韓国のように「超」羨んだりはしない。水平構造を作った社会のおかげだ。
しかし、韓国が歩んできた道は? 序列化打破のための社会的決断ではなく、成功と出世を目指す個人的決断だった。承認欲求ないし権力欲こそ核心だ。まさにこの態度が21世紀のこんにち、やはり(子どもたちの夢を応援するのではなく)「修能に命を懸ける」奇妙な社会を生んだ。それも、本人が行きたい専攻ではなく、親や社会に高く評価される大学を選ぶのだ。社会的観点からの序列化打破運動がすべての人の尊厳を認める人間化の過程だとすれば、個人的観点からの成功・出世運動は既存の序列構造の中でよりはやく、より高くはい上がろうとするものであるため、序列化構造と心理を強める。まさにこの過程でほとんどの人は「心の序列化」によって自ら進んで支配されるようになる。ルル・ミラーの『魚は存在しない』(Why Fish Don't Exist)に出てくるように、尺度(ruler)が支配者(ruler)へと急変するのだ!
大学入試と労働市場の壁の他に、国家権力も私たちの生活を「公正に」序列化する。小学生さえ「お前のお父さん、何しているの?」に関心を持ち、誰の親が優位なのかを比較、競争する。校内暴力の背景によく「権力者」の親が潜んでいるのがその証拠だ。大人の世界も同じだ。まともな大卒者または一流大学出身者でなければ大統領になる資格もないという奇想天外な考えが、まるで普遍の常識としてまかり通っているのが今の韓国政治だ。フランシス・ゴルトンの身体的、生物学的優生学と比べると、これは政治的、社会学的優生学だ。この優生学がついには人種主義とホロコーストを招いたことを覚えておこう。
随時報道される政党支持率を問う世論調査や人気度調査も、やはり権力欲の産物だ。与野党を問わずポピュリズム(人気迎合主義)のわなにはまるが、これもやはり社会のすべての構成員の長期的な生存と幸福ではなく、短期的な権力に対する欲望が作り出したものだ。昔から「人の上に人はなく、人の下に人はない」と言われてはいても、実際の現実は冷酷な序列化体制だ。構造的序列化より恐ろしいのは心の序列化だ。まずこの心の序列化を打ち破らなければ、構造的序列化は固まってしまう。
大学入試と就職試験以外では「学習」との壁を築いて生きる社会、ここに希望はない。しかし、目と耳を開いて周りを見わたしてみよう。あちこちに10人前後が集う出会いがある。車座になって良い本を読んで開かれた対話をすれば、傷と恐怖は消え、活力と勇気が湧いてくる。たとえ少数だとしても、生きていることの喜びと小さな希望を作り出す楽しい活動の数々があある。これらの運動は、非人間的で反生命的な権力秩序に亀裂を生じさせる。卵で岩に跡をつけるように、雨水が岩をうがつように、木の根が岩を割るように隙間を作る。私たちの大多数が一貫してこのような姿勢で生きれば、序列化の打破も不可能ではない。
遠い昔、すでにチャールズ・ダーウィンは「地球の数多くの生命に順位をつけるな」と述べている。しかし私たちはそれを気にも留めず、互いに順位をつけ、自然にも順位をつける。「客観的に」見れば、母のような大自然のごく一部に過ぎない人間は「万物の霊長」を自称して優越意識を強調しつつ、万物をはしご(位階)として見る。ルイ・アガシーの「自然のはしご」概念が社会全体へと拡張されている。このような考え方は資本主義と共に共同体を解体し、序列体制をも生んだ。ゆえに、権力ははしごを使って下り、賄賂ははしごを使って上る。この序列化は、私たちにとっては「見えない監獄」だ。上下を争う序列競争は、実は成功しても空虚で、失敗したら狼狽(ろうばい)するゲームだ。今日、私たちはこの監獄に閉じ込められ、うめき声をあげている。毎年繰り返される大学入試騒動は、このうめき声の一部だ。
官庁や学校の高い壁を壊すように、心の序列化と構造の序列化を壊してようやく、誰もが自由人(!)となる。『植物と叡智の守り人』のロビン・ウォール・キマラーのように「見えないが万物に生命力を吹き込むエネルギーに満ちた世界」との親密な関係を回復し、あらゆる偽りの尺度をなくしてしまえば、新たな世界は開かれる! 『土地』の著者パク・キョンニのように「すべての命は公平だ。自らに対する憐憫(れんびん)は命に対する憐憫へと広げられなければならない」。同じ脈絡から、山尾三省の「自然、地球、宇宙の慈愛をありのまま受け入れ」る「いにしえの人間」こそ未来だ。気候危機と戦争の危機が世の中を締め付けている今、「まず自分が」命の感受性を取り戻し、隣人と「共に」集い、開かれた心で世の万事を論じはじめてはどうだろうか?
カン・スドル|高麗大学融合経営学部名誉教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )