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[徐京植コラム] 「老い」という他者

登録:2023-01-27 07:49 修正:2023-01-27 08:12
白い布にポツリと落ちた「老い」という黒いシミがゆっくりと広がってきた感じと言おうか。(…)50代の頃の私は高齢者の「他者」であり、「他者」として老人たちを見ていたのだ。今は自分の身体に「老い」という見知らぬ他者が入り込んで、私自身の内部を侵食していると感じる。
Jaewoogy.com//ハンギョレ新聞社

 私のいる日本の長野県は、厳寒である。窓の外には雪が舞っている。天気予報は明日は零下15度まで気温が下がると伝えている。厳寒の日本から読者の皆さまに新年のご挨拶をお送りする。なんとか平和な一年を送ることができますように。

 ロシアのウクライナ侵攻から、そろそろ1年が経とうとしている。戦闘はまだ続いており、今後も長く続くだろう。もちろん、その間にも、一般民衆の犠牲は積み重ねられている。私の脳裏には「管理された戦争」という言葉が浮かぶ。管理されたまま戦争が継続していることは、各国の政府と軍・産・学および金融資本の共同体にとってまたとない望ましい状態であろう。欧米(日本も含む)のスタンスには、戦闘そのものの範囲をウクライナの領域内に限り、兵員等の直接の犠牲は極力避けながら、現在の状態を長く続けようという意図が見え隠れしている。「戦時」「非常時」を口実とし、一般大衆を思考停止状態に追いやり、積年の難題を一気加勢に片付ける構えである。日本の例を挙げれば、現在政府が進めようとしている防衛費(軍事費)を大幅に増額して増税で賄う政策や、原発の再稼働や新設方針などが代表的事例だ。これまで辛うじて保たれてきた民主的意志決定の仕組みが大きく損なわれつつある。全世界が反動期に入ったようだ。そういう世界的大反動の時期に、日本は(韓国も)少子高齢化の時代を迎え、私自身も老境に入っていくわけである。

 今回のコラムの締め切りを目の前にして、早く夕食を終えて机に向かわなければと思いながら口の中の食物を咀嚼していたとき、また歯が外れた。下顎の前歯である。かつてこの欄に「歯が外れた–2020年の年頭所感」と題する一文を寄せたことをすぐに思い出した。あれからちょうど3年が経ち、私はその分、着実に歳をとった。今や私に残されている歯の数は乏しい。

 クルマに長くすわっていると足腰が硬直して痛くなるので、電車を利用することが多くなった。だが、いつも約束の時間に遅れそうになって慌てる。目的地までの所要時間の見積もりを誤るのである。あそこまでなら45分あれば充分だ、と思い込んでいるのだが、それはまだ若かった頃の基準が更新されないままだからなのだ。乗り換えなどで急いで走ろうとするが、うまく走れないし、転びそうになる。

 忘れっぽくなった。携帯電話、メガネ、読みかけの本…絶えず何かを探している。この頃はマスクだ。探しあぐねた末に、たいてい自分の顎の下に発見する。だが近頃は、何かを探しながら、自分が何を探していたのか思い出せない時がある。この調子で行くと今後は、自分が誰だったか思い出せなくなって「私は誰?」と尋ねることも、ないとはいえない。

 怒りっぽくなった。とくにパソコンやスマホに向かう時、うまく扱えないどころか、その世界に流通している言語そのものに疎遠であるため、ひどく心を傷つけられる。自分自身のパスワードを忘れてしまい、信用カードの決済もままならない。そういう自分への腹立ちを抑えかねる。

 白い布にポツリと落ちた「老い」という黒いシミがゆっくりと広がってきた感じと言おうか。

 20年ほど前に、ドイツのミュンスターという都市を訪れたとき、公共バスが停留所に停車するごとに車体を傾ける様子を初めて見た。乗降客とくに高齢者が負担なく乗り降りできる装置なのだった。私と妻はそれに感心し、私たちの住む日本の都市でもこういう装置が早く普及しないものか、語り合った。そう語り合った頃は、自分たちがその恩恵を受ける考えはほとんどなく、高齢者や弱者のためにという考えだった。その後、いつの間にか、そのような傾斜乗降バスは日本でもかなり普及した。今はそのバスを歓迎し、ありがたく老弱者席に着席するようになった。50代の頃の私は高齢者の「他者」であり、「他者」として老人たちを見ていたのだ。今は自分の身体に「老い」という見知らぬ他者が入り込んで、私自身の内部を侵食していると感じる。

 私はかつてこの期間を初老期から老年期への移行期と形容したが、その「移行」の困難さは想像以上だった。穏やかな老境を静かに愉しむどころか、何か意義あることをしなければならないという切迫感と、その意志に心身が追いつかなくなった焦燥感が絶えないのである。

 「老人」とはどういう存在だろうか? 子供や若者に対しては、実際にそれがどの程度有効に行われているかはともかくとして「未来への投資」という言葉が常套句として使われる。「老人」に対してはどうだろうか? 「あなた方のおかげで現在がある」という美辞麗句があるが、そこにすでに「生産力」としてカウントされることのない存在に対する温情主義的「責任」論、ことによれば捨てたいが捨てられない「お荷物」という含意がないだろうか? 少なくとも、もはや役目を終え、退場を待つばかりの無用の存在、「廃棄物」とも見做されかねない存在ではないのか? 「老人」は自らを廃棄物と見ている人々の温情に期待して、生命の尽きるのをおとなしく待つしかないのか?

 私はこのような圧力にできる限り抵抗したいと思っている。「未来への投資」という言葉には「生産力」というマジックワードが潜んでいる。「投資」という以上は利潤を上げることが前提になっている。つまりすべてをはかる尺度は「利潤」なのである。「老人」は利潤獲得に奉仕して自らにまだ「生産力」が残されていると証明しようとするのではなく、それとは逆の視野、つまり「生産力」や「利潤」という尺度では測ることのできない価値を呈示しなければならない。

 日本の代表的戦後知識人である加藤周一さんはかつて、社会運動における「老学共闘」というアイデアを示された。日本社会の成人男子の大部分は「会社」という組織にがんじがらめにされた「会社人間」である。これでは、この人々が社会運動に積極的に参与することは期待できない。一方、学生はまだ「会社人間」になっていないので比較的自由に発言し活動することが可能だ。同じように、定年退職して会社のしがらみから解放された老人にもその可能性がある。若者たちの活動に「解放された老人」が合流し共闘すれば、日本の社会運動に新しい希望が芽生えるのではないか。……記憶によれば、おおよそこのような趣旨であった。1970年代、日本社会が脱政治(ノンポリ)化の坂を転落し始めた頃の話だ。

 加藤さんの話は、「解放された老人」たちが立ち上がってこのような現状に一石を投じるという夢、一種の寓話だ。現実には若者の多くは自ら進んで「会社人間」となって安定を得ることを至上の目標としている。加藤さんの「老学共闘」は興味深い夢だったというほかない。それでもこのような寓話を私も語りたい。年少の人々が語ろうとしない夢、別の人生の夢を示すこと、それもまた老人に可能な社会貢献である。

 自分の中にで育っていく「老いという他者」と粘り強くつき合い、対話していくつもりだ。

//ハンギョレ新聞社

徐京植(ソ・ギョンシク)|東京経済大学名誉教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1077134.html韓国語記事入力:2023-01-27 02:35

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