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[寄稿]韓流、もう一つの搾取工場なのか

登録:2019-03-12 21:34 修正:2019-03-13 09:10

未成年者のアイドルグループメンバーに、露出の非常に激しい舞台衣装が強圧的に強要されるのは「コリアブー」たちには芸能界資本の家父長的暴力として映るが、何より“可愛くてセクシーな妹”というコンセプト自体が性平等、女権伸張が話題となっている時代に合わないこととして認識される。

韓国大衆文化を媒介として、北欧の人々が韓国と親しくなれば、さまざまな面で良いことだ。ところが、彼らが韓国と親しくなればなるほど、低賃金と不安定労働、女性イメージの性愛化と芸能界の“乙(弱者)”に対する人権蹂躪に基づいた韓流生産のメカニズムを深刻に考えるようになる。

グラフィック//ハンギョレ新聞社

 最近、私は今までほとんどしたことのない仕事を一つすることになった。韓国大衆文化の授業をすることになり、特にノルウェーで韓国の大衆文化が好きな若者たちとしばしば会い話を交わすことになったのだ。ノルウェーを含む欧米圏では、そのような若者たちをよく「コリアブー」(Koreaboo・韓国オタク)と呼ぶ。「コリアブー」たちの韓国との出会いは、普通K-POPや韓国産ゲームなどで始まるが、必ずしもそれに限定されない。少なくとも一部の「コリアブー」はさらに進んで、韓国を訪問し韓国語まで習い始める。韓国学が比較的弱い北欧圏の場合には「コリアブー」こそが韓国学関連教員の最も重視する“潜在的学生”だ。私のように韓国の韓流を含むどの大衆文化にも特別な個人的趣味がない韓国学学徒も、それで「コリアブー」研究に最近相当な熱を上げている。

 率直に告白しよう。彼らに会う前に、私は彼らに対する偏見を強く持っていた。つまりK-POPのきらびやかなリズムと一糸乱れぬ切れ味抜群の群舞に魅惑され、コンピューターゲームに人生を浪費する中産層の考えのない子らでないかとさえ思っていた。ところが、「コリアブー」の世界を開いて見たら、私はきわめて意味深長なひとつの事実を発見するに至った。じつは、すべてではなくとも相当数の「コリアブー」は思っていたよりはるかに批判的な韓国愛好家だった。彼らはともすれば自国の文化よりも韓国文化の方が好きなため、韓国の大衆文化生産に対する要求レベルも思った以上に高かった。そして、話を交わして見ると、彼らの観点は私の観点とあまり違っていなかった。

 私の朝鮮半島との縁は、大学入試に成功した1989年に初めて接した1958年度版金日成総合大学の朝鮮語教科書で始まった。後になって1990年代初期の韓国大衆文化、すなわちチョン・テチュンやノチャッサ(歌を探す人々)の歌にも接することになったが、私が初めて聞いた朝鮮半島系統の歌謡は北朝鮮の「赤旗歌」と「金日成将軍の歌」だった。北朝鮮の大衆文化といえる歌や映画との縁が先にできただけに、北朝鮮の現実の悲劇的側面を早くから苦痛に思い始めた。例えば、一時東欧全体を席巻し途方もない人気をおさめた北朝鮮のアクション映画『命令027号』(1986年)を30年前に初めて観た時、その映画で実感をもって接した極度に軍事化された社会の姿は、私にはとても悲しく感じられた。同じように朝鮮半島との縁を韓国の大衆文化から始めた北欧の「コリアブー」たちは、すぐにこの大衆文化の中にうっすら見える問題についてしばしば苦悩することになる。

 「コリアブー」たちの関心は、たいていK-POPに集中する。ところが、彼らのK-POP理解は想像以上に深く体系的だ。彼らはK-POPを可能にさせた韓国型ラップがソ・テジの歌で先駆的に登場したという事実をよく知っていて、多くの場合は1995年の「カムバックホーム」の歌詞程度は―場合によっては最初から韓国語で―朗読することもできる。そして彼らは私にしばしば尋ねたりする。1990年代中盤でも社会に対する反抗心が切実に感じられるそのような歌詞が、なぜ最近のような、さほど社会的イシューと関係のない歌詞に変わることになったのかと。私は(株)SMエンターテインメントのような企業、すなわち芸能界資本が計画生産するように輩出するグループの歌詞が、資本に対して批判的であることを果たしてどこまで合理的に期待できるかと彼らに反問したりする。とはいえ、韓国ポップ音楽の歌詞が少しずつ社会的イシューを喪失していることに対しては、彼らも私もとても残念だと考えざるをえない。

 私が知っている「コリアブー」たちは、その多くが若い女性だ。それで自然に彼女たちにとってK-POPで再現される女性表象の問題は焦眉の関心事だ。彼女たちは、イ・ヒョリのような一部の韓国女性芸能人に女性としての望ましい主体性と行為者性を見出すが、最近の“ガールグループ”に対しては見れば見るほど物足りなさばかりが深まる。未成年者のアイドルグループメンバーに、露出の非常に激しい舞台衣装が強圧的に強要されるのも、彼女たちには芸能界資本の家父長的暴力として映るが、何より“可愛くてセクシーな妹”というコンセプト自体が性平等、女権伸張が話題の時代に合わないこととして認識される。力強く見え躍動的な男性アイドルの隣で、女性が身体露出と男性の保護を要請するような“可愛い”姿でチャームポイントを得なければならないのは、男性と自分たちに大きな違いはないと考えるスカンジナビア女性たちにとって、ただ不自然に見えるばかりだ。ところが、考えてみれば、韓国人の視覚で見ても、芸能界資本がガールグループを生産しマーケティングする方式は、果たして自然で望ましく見えるだろうか?

 北欧の「コリアブー」たちを含めて、韓流の国内外のファンたちが異口同音に疑問を提起する部分はもう一つある。長ければ13年にも及ぶ、そのうえ搾取的といえる収益配分率と、人権侵害と思えるほどの私生活関連条項を含む俗称「奴隷契約書」の問題だ。事実、私が会った相当数の「コリアブー」は、10年前に東方神起のメンバーの一部が、所属会社のSMエンターテインメントを相手に繰り広げた法廷攻防のあれこれを、私よりはるかに詳しく知っている。そして、知れば知るほどいぶかしがっている。私に対して最もしばしば投げられる質問の一つは「恋愛禁止のような個人の私生活の権利、すなわち基本的人権を侵害する条項を含むこのような契約書が、韓国の法体系上で有効なのか」という問いだ。ノルウェーのみならず、私が知るどこの国でも恋愛禁止条項は当然法的には成立不可能で源泉無効だろう。果たして、ファンを相手に“商売”を行い、芸能人の私生活までを芸能界資本の金儲けの手段とする今日のK-POPのような“ビジネス”の方式は、今後世界の人々の理解と共感をどこまで得られるだろうか?

 スターも芸能界資本から搾取にあうが、ともあれスターであるだけにそれなりに厚い努力の対価を受けることはある。ところが、韓流文化商品の生産に決定的な役割をしていながらも、薄給と各種の不当労働行為に苦しめられ続ける「韓流文化の無産階級」もいる。映画やドラマ撮影になくてはならない補助出演者、すなわち“エキストラ”たちだ。ノルウェーの消費者がよく使う韓国製自動車や携帯電話が多くの非正規職労働者の低賃金不安定労働によって生産されるように、ノルウェーの「コリアブー」たちが愛する韓国映画やドラマは、普通間接雇用された非正規職であるエキストラたちの低賃金労働で作られる。最低時給に過ぎない低賃金だけの問題だろうか?ドラマ撮影の場合には、賃金ははるかに遅れて支給され、また必死に汗を流して稼いだ金も受け取れないことがたびたびある。映画版の場合には、特に危険千万な戦闘シーンなどで負傷した補助出演者は、補償金と治療支援を簡単には受けられない。常に間接雇用を伴って、今日使用者に歯向かえば明日は招請を受けられなくなるかもしれないという不安感もまた、常に補助出演者たちにつきまとう。このようにして作られる映画、あるいはドラマ商品を、良心ある大衆文化消費者は果たして気楽に楽しめるだろうか?

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学//ハンギョレ新聞社

 商業的大衆文化を私たちの時代の“人民のアヘン”と見る見解もあるが、その純粋機能も認めるに値する。韓国大衆文化を媒介として、北欧の人々が韓国と親しくなれば、さまざまな面で良いことだ。ところが、彼らが韓国と親しくなればなるほど、低賃金と不安定労働、女性イメージの性愛化と芸能界の“乙(弱者)”に対する人権蹂躪に基づいた韓流生産のメカニズムを深刻に考えるようになる。彼らは、韓国が好きであるほど“奴隷契約”や“恋愛禁止”、あるいは一日に15~20時間も仕事をしなければならないドラマスタッフの地獄のような暮らしを問題にするだろう。労働者の無限の一方的犠牲により成り立つ韓流ブームは、少なくとも北欧では長続きが難しいだろう。世界の人が楽しむに値する韓流ならば、平等と芸能界労働者の人権尊重から出発しなければならない!

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大学教授・韓国学 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/885638.html韓国語原文入力:2019-03-12 19:29
訳J.S