「大韓民国の発展に役立てるなら、身を燃やし尽くしても、その道に進む用意がある」
潘基文(パン・ギムン)前国連事務総長は先月20日、ニューヨークの国連本部で開かれた韓国特派員との懇談会でこのように語った。「身を燃やし尽くす」というのは、いかなる危険も、いかなる不利益も甘受し、前に進むということだ。大統領選挙への出馬宣言にふさわしい言葉だ。
これが精巧に企画された言葉だとしたら、意図にも見当がつく。カリスマと決断力が足りないという批判を意識し、わざと強い語彙を駆使したのだ。最近、潘前総長の発言にこれまでないほど強い言葉が並んでいることから、「油うなぎ」のイメージを払拭しようとする戦略が窺える。
ところが、懇談会の現場では不思議なことに、彼の言葉と表情、眼差しから決意と重みはあまり感じられなかった。発言している当時の状況を繰り返し再生してみても、その感覚はあまり変わらなかった。
とてつもない重みが感じられるべき「燃やし尽くす」という言葉が空しく聞こえたのは、単に彼のメッセージ伝達能力が足りなかったせいではないだろう。「雲のようにおびただしい聴衆」を引き連れていたバーニー・サンダース上院議員も、現場で聴いてみると、“演説テクニック”があまり良い方ではなかった。それでも彼の遊説現場はいつも熱気とときめきに満ちていた。労働階層と所得不平等の解消、環境保護のために“燃やし尽くしてきた”彼の人生そのものが共鳴を呼び起こしたからだろう。
残念ながら、潘前総長が、外交官としても国連事務総長としても、身を投げて決断を下したという話はあまり聞いたことがない。韓国外交官としての経歴は公務員だったから、そのような機会があまりなかったとしても、道徳的権威を与えられた国連事務総長としての職務も放棄し、市民団体と国連内部監視機構の批判を少なからず受けた。
代表的な事例がハイチのコレラ事態だった。2010年大震災支援のために派遣された国連平和維持軍がコレラを伝染させ、少なくとも10,000人を超える死者が発生し、数十万人が感染した(「ニューヨークタイムズ」)。これまでコレラがなかった国であるハイチはコレラに無防備だった。コレラは近くのドミニカ共和国まで広がった。(ところが)潘基文前総長はそれから6年後に謝罪した。
発病の翌年の2011年、国連専門家パネルたちは疫学調査を通じて、ネパールから派遣された平和維持軍が疾病の震源地であることを明らかにした。被害者たちが国連に補償を要求し、市民団体が国連を相手に訴訟まで提起した。国連内部の調査機構や人権担当者らも国連の無能を批判した。しかし、“潘基文の国連”は人道主義支援の代わりに平和維持軍の「免責特権」を掲げ、法を盾に隠れた。
潘前総長が遅ればせながら直接謝罪したのは、事務総長の任期終了を1カ月後に控えた先月1日だった。彼は「ハイチでのコレラの勃発と拡散に十分対応できなかった。ハイチ国民にも謝罪する」として、“道意的責任”のみを認めた。あいにく、彼の韓国大統領選への出馬が既成事実化されていた時期だった。
彼が大統領選挙への出馬を控えて“悪材料”になる可能性を除去するために、最後の最後に謝罪をしたのかは知る由もない。ただし、無力で貧しく、国連に対する訴訟にも敗れたハイチのコレラ被害者たちが、6年間“何もできなかった”ことは明らかだ。大国の間で綱渡りをしなければならない事件でもなかったのに、国連の大義を守るためにも、彼がどうして積極的に乗り出さなかったのか分からない。
彼は疎通と統合を自分のリーダーシップとして提示した。外国指導者に多く会ったというだけでは“疎通の達人”にはなれない。真の疎通と統合は、指導者が被害者らに背を向けず、批判を認め、過ちに対して謝罪し、問題解決のために骨身を惜しまない決断を下すことから始まる。彼が特派員談会で「燃やし尽くす」と言った時、言葉が空回りしていた理由が少しは分かったような気がする。
韓国語原文入力:2017-01-05 18:12