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[ハンギョレ21 2011.12.05第888号]‘エセ右翼’誕生史は公的人間の消滅史

[金東椿(キム・ドンチュン)の暴力の世紀vs正義の未来] 公人の失踪②-地域名望家を虐殺して開いたエセ右派だけの世の中

韓国社会は公的人間が絶滅した後に親日派が作った結果にすぎない(5036字)


李明博政府がスタートして以来、人事聴聞対象者は総計89人でこの内82.0%に及ぶ73人が税金脱漏、不動産投機、偽装転入、兵役忌避、論文盗作などいわゆる‘4+1必須(?) 不法科目’から自由でないことが明らかになった。 脱税または、脱漏、滞納など税金関連疑惑が57人(64.0%)で最も多く、不動産投機疑惑44人(49.4%),偽装転入疑惑29人(32.6%),兵役忌避疑惑16人(18.0%),盗作など論文関連疑惑13人(14.6%)の順だった。
地域も限定されない。 民選自治体長3人を輩出した京畿道(キョンギド)城南市(ソンナムシ)と全北(チョンブク)、任実(イムシル)の場合、歴代自治体長全員が拘束された。ほとんどがわいろ授受などの罪目だった。 慶北(キョンブク)の永川市(ヨンチョンシ)と闘牛で有名な清道郡(チョンドグン)は2005年以後、市長と郡長が選挙法違反などの罪目で辞任し毎年選挙を行ってきた。忠清北道(チュンチョンブクド)は民選4期の間に道内自治体長の内4人が中途落馬し、民選5期に入っても自治体長3人が起訴された。江原道(カンウォンド)・全羅南道(チョルラナムド)などの事情も同様だ。団体長の不正は殆ど全国的な現象であり、そうでない人を探すのが難しいほどだ。


←‘スポンサー検事’として名を馳せたチョン・ソングァン ソウル中央地検長が検察総長内定辞退の翌日2009年7月17日に退任式を行い庁舎を去っている。 <ハンギョレ>パク・ジョンシク記者

4・3事件の前後で地域人物が克明に分かれた済州(チェジュ)


1953年休戦以後、それまで大統領が何度も変わり政府与党や野党の有力政治家たちが世の中を勝手気ままにし、数多くの長官と高位官僚が来ては去ったが、民主政権時期を除いては私たちの記憶に残っている人が殆どいないのはどうしてか? 尊敬するに足る指導者がいないという話を聞くのも本当に長く続いた。 最も力があった人々が在任期間中やその後の各種腐敗スキャンダルで犯罪者となり監獄に行き、茶山 丁若鏞(チョン・ヤギョン)の言葉通り‘死んで死体が冷める前に’そのような人がいたという事実自体が忘れられた。


私はこれを中央や地域社会で‘公人の失踪’、すなわちただ個人的権力欲と出世欲に捕われた人々だけが主に力がある席に座れるような世の中になったためだと見る。任命職であれ選出職であれ別に大きな差はない。民主化以後、選挙都市う手順を踏んでいるものの、真に国民と住民の側に立って仕事をする人が当選する可能性は現在も殆どない。韓国戦争は左翼はもちろん中道あるいは右翼要人の中でも公的大義に献身する意志を持った人々を除去し、以後はそのような人が席を占める可能性が殆どなかった。 特に地域社会の1次勝負は1945年8・15解放直後ほとんどすべての地域で組織された建国準備委員会・人民委員会を通じてだった。公式歴史は左翼がこれら組織を主導したと教えているが地域社会に入ってみれば話はそうではない。実際に解放直後に地域で信望を受けた相当数の人々が抗日運動経歴のためにこれらの組織で活動した。2次勝負は政府樹立前後に彼らが弾圧を受け除去されて、まもなく虐殺された事件だ。


済州道(チェジュド)ほどに4・3事件以前と以後で地域社会の指導者が克明に分かれるケースはその極端な例だ。解放直後、済州道(チェジュド)で建国準備委員会や人民委員会など地域自治機構で活動した人々は70%程度が日帝下での抗日運動経歴のために住民たちにより推戴された。しかし米軍政は彼らを追い出しそこへ地域の富豪や極右人物を道知事として座らせ、4・3事件を体験して初期に住民の信望を受けたすべての人物が他殺・虐殺・失踪した。1987年以後、済州4・3事件再照明の雰囲気が活発になるや地域の老人たちは 「賢い人々は皆死んで、不十分な私たちだけが生き残った」と話し始めた。すなわち民主化以後、暴徒と見なされ死んだ人々が実際には‘リーダーシップのある賢い青年’だったという事実を告白し始めた。 ある人は「導いて教える真の先輩がいなくなり村の正気と脈が切れた」と語り、また、ある人は4・3以前の指導者らと親日派高等係刑事出身でまた分け目を迎えた以後の済州地域支配者らを比較して「勇気のある果敢な人は皆死んで誰それが道知事になると道民たち皆があざ笑った」と話した。以後、済州道では「元老がいない」という言葉がしばしば言われた。


親日派らに殺された地域人物ら‘元老失踪’、すなわち尊敬するに足る指導者不在は済州道だけの現象ではなく、事実1950年代以後の韓国全体の特徴だった。日帝植民地時期に郡単位での住民の要求は主に地域社会の地主富豪層、親日識者層で構成された‘力のある’集団によって代表されたが、これらの人々は総督府役人たちとの闇取り引きと陳情を通じて嘆願を解決し指導者としての役割を果たしてきた。総督府の官吏や警察がこれらの人々を後押ししたので、彼らは地域社会で独占的権力を享受できた。しかし解放になると彼らは追い出され、住民の信望を受けた抗日要人や知識層、良心勢力が住民の参加を通じて短期間であるが地域社会を導いた。しかし米軍政と政府樹立、そして韓国戦争を経て地域社会は再び植民地末端官僚出身、右翼青年団出身、中央で有名になり故郷へ落下傘で降りてきた人物たちで満たされ、日帝時期のようなロビーと嘆願を解決する方式に戻った。


韓国戦争期に李承晩政府の軍警・右翼団体によって虐殺された人の中には解放直後に地域社会で指導者として推戴された人々の大部分が含まれていた。彼らを殺したのは日本警察出身とかつての親日経歴者らだった。彼らの抗日経歴と反李承晩路線が死に値する罪だった。


全南(チョンナム)莞島(ワンド)・海南(ヘナム)などの地域では日帝下で青年運動・小作争議などに参加した地域の活動家、全南運動協議会再建委員会のような抗日運動に身を置いた相当数の人々が解放直後、自然に建国準備委員会、人民委員会、朝鮮人民党、青年団体など地域政治に加担した。 しかし彼らは米軍政の供出に反対したり、李承晩の肩を持たなかったり、単独政府樹立に反対したという、まさにその理由のために政府樹立前後に数えきれない程に警察署に出たり入ったりしたが戦争以前に警察によって射殺されたりもし、韓国戦争を経て保導連盟員あるいは反逆者に指定され大部分が虐殺された。崔平山(チェ・ピョンサン 1903年生)は日帝時期に莞島郡(ワンドグン)所安面(ソアンミョン)に本部を置いた守義為親契構成員であったし、倍達靑年會事件で懲役3年を宣告されたことがある代表的抗日要人であった。彼は解放後、かつての抗日運動同僚らと地域社会で活動し警察の注目を浴び、結局1948年11月5日警察によって射殺された。所安面のキム・ジャンギュン(1923年生)は光復軍出身だ。解放後に帰国して莞島郡‘民主愛国青年同盟’責任者になった後、手配と拘禁が反復された。キム・ジャンギュンは莞島邑、竹青里裏山に隠居している間1949年4月13日警察により射殺された。キム・ナムゴン(1899年生),キム・ジャンアン(1905年生),キム・ユゴン(1908年生),チェ・ホンギル(1899年生)は所安私立学校同窓で日帝強制占領期間の所安面独立運動2世代だ。彼らは解放後、所安面の社会運動を主導し、いつも警察に拘禁された。1949年8月所安面で左翼の疑いで各々逮捕された彼らは莞島郡、薪智面(シンジミョン)現在の明沙十里(ミョンサシムニ)海岸で警察に全員射殺された。


←公式的歴史は左翼が建国準備委員会組織を主導したと教えているが、地域社会に入ってみれば事実はそうではない。左右を離れた地域の名望家が建準で活動した。1945年8月15日、呂運亨(ヨ・ウニョン 下段右から五人目)が徽文(フィムン)中学校で建準集会を持った。<ハンギョレ>資料写真


公人除去後に作った今の韓国


独立運動の根拠地である莞島郡、所安面は解放後‘左翼の根拠地’と名指しされ焦土化したし、このように転倒した記憶は今も島の人々を押さえ付けている。祖父・父が全て左翼系列活動家であった莞島のチョン・ジョンレ氏は「世の中は私を独立活動家の子孫ではなくアカの子孫と見た」と回想したが(<週間京郷>、2007年8月14日),独立運動の功績、解放直後の地域社会運動の記憶は全て消え、アカの軛だけを担った家族たちの話は全国どこでも見出すことができる。


抗日運動家出身や左翼系列の人々が消えるや中道層や右翼指向の人々、識者層が地域社会に登場した。ところが政府樹立前後、町内で区長や班長の役割をした人の中の一部が戦争勃発後に人民軍が占領した以後、避難できずに残っていたが、人民軍は町内事情をよく知って字が書けるこれらの人々に地域行政を任せ、収復後に警察や右翼治安隊はこれらの人々が人民軍に附逆したという理由で殺害した。


地域の宗教指導者たちの中にも住民の謀略で殺害されたケースがある。京畿道、金浦市(キンポシ)、高村面(コチョンミョン)にはイム氏が多く暮らしていたが、彼らのほとんどは新教教会の‘第一教会’信者だった。解放後、他地方人ソン・ヘボンが入ってきて天主教を伝播し、地域の青年たちに文を教えて人気を一人占めした。町内の人々は子供が天主教に出て行けば結婚もしないのではと恐れることもした。人民軍がこの地域を占領した後、彼は文ができる人であったために協力しないわけにはいかなかった。収復後、イム氏らは自治隊を組織してアカ探索に出た。結局、目の上のコブのようだった外部人カトリック信者をなくせる機会になった形だった。地域で信望を一身に受けていたソン・ヘボンはそのようにして隣人住民たちに殺害された。


韓国のどんな地方、地域社会に降りて行ってもこういう事例に出会える。結局、朝鮮戦争前後の地域社会で殺害・失踪・虐殺された人々が左翼要人だと見るのは冷戦時代の視角だ。イデオロギーのメガネを投げ捨ててこそ韓国地域政治の実状が見える。公的マインドを持った人間、すなわち日帝時から抗日運動をして生き残った人や地域社会で信望があった青年、住民のために働いた区長・班長、行政末端指導者の一部が自身の権力と金を守るために手段と方法を選ばなかった人々によって殺された事実に注目しなければならない。彼らの抗日経歴と解放直後の地域政治参加は公人としての責任感と使命感に基づいたものであって、イデオロギーの定規を突きつける性質のものではない。したがって韓国戦争前後の虐殺はよく言われているような韓国政治からの‘左翼の消滅史’ではなく、親日警察と軍人によるかつての独立活動家らの受難史であり我が国歴史最大である公的人間の消滅史と言うのが正しい。よく人々は親日派が勢力を伸ばし今日の韓国政治と社会がこのように歪んだと言うが、間違ってはいないが、それは親日派と警察が解放後に地域政治を主導していた抗日運動家、地域指導者らを意図的に除去したり虐殺した結果だと言わなければならない。


休戦後7年目にして現れた公的人間


そして戦争後の韓国は私的利害、家族だけのために手段と方法を選ばず生きてきた人々の世の中になった。植民地の末端下手人‘有力者集団’は再び地域社会の維持、反共国家の尖兵として登場した。したがって公的人間の消滅史は同時に私たちの社会を支配している‘エセ右翼’の誕生史でもある。ところが公的道徳で武装した新しい人間は休戦後ちょうど7年後に出てきた。 4・19革命がそれだ。「既成世代退け」というスローガンは「単に個人と家族だけのために手段と方法を選ばずに生きてきた人間は退け」という言葉であった。


聖公会(ソンゴンフェ)大社会科学部教授


原文: http://h21.hani.co.kr/arti/COLUMN/152/30907.html 訳J.S