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[ハンギョレ21 2010.05.21第811号] その時そこでその人々(3637字)

あるドイツ人写真家の光州抗争に対する特別な視線‘リメンバリング 光州’

←カン・ギルチョ
1980年5月18日光州、全南大前交差路で学生たちが空輸部隊に殴打されていた。"私は自分の車で学生たちが逃げるのを何回も助けました。" カン・ギルチョ氏は軍人らが彼を学生主謀者と誤認し、車の窓を割り乱暴に外に引き出したという。"軍人らは私が気を失うまで殴打し続けました。私が目覚めた時、私は軍用トラックに乗せられどこかに移送されていました。死んだような人々が私のからだの上に幾重にも積まれていました。" 数人の軍人がトラック内に催涙弾を発射した。彼らは拘束された捕虜たちが極度に苦しむのを見ておもしろがった。

光州刑務所に到着した後、彼は多くの死骸がトラックに載せられているのを見た。それは模擬死刑場と違いなかった。光州刑務所での時間は地獄だった。 カン・ギルチョ氏の証言内容だ。
 "何日も水も飲めなかった私たちは水を求めて大声を張り上げました。その時、ある空輸部隊員が言いました。‘あいつらに小便でもやれ’すると、ある軍人が本当に小便をカップに入れて私たちに揺らして見せました。捕まった人の中の一人がそのカップを持ち上げ、まるできれいな水を飲むかのようにぐいぐいと飲みました。私たちはもはや人間ではありませんでした。単に獣に過ぎませんでした。私たちは死骸の間で食べて寝ました。一人ずつ人目を避けるように用便を済ませ排泄物をなめて帰ってこなければなりませんでした。"

5・18光州民主化運動は9年後に起きた中国の天安門虐殺事件とは違い、大部分の西欧社会から忘れられた。米国は気に入らない国の人権じゅうりん状況に対しては些細なことでも批判をしてきたが、光州抗争の流血鎮圧と関連しては彼自身が行った役割について一度も認めたり謝ったことがない。
私は韓国人の妻とともに2009年10月から12月初めまで、そして2010年に入ってからも3週間ほど光州を訪問し‘リメンバリング光州’(REMEMBERING GUANGJU)という題名の写真プロジェクトを進行した。私たちは事前準備として多くの本を読んだが、光州の歴史的現場を直接散策し被害者らの生々しい証言を聞くことより良い本はなかった。歴史が蘇るような経験だった。

←ユン・サンウォン烈士の父親ユン・ソクトン
5月27日朝、戒厳軍が道庁鎮圧のために最後の襲撃を展開した時、学生指導部としては唯一人 道庁を死守し命を失ったユン・サンウォン烈士の年齢は29才だった。
彼は光州にほど近い林谷の農家で生まれた。若いユン・サンウォン烈士は家の近所の工場で仕事をする勤労者たちが厳しい仕事に比べてあまりに少ない賃金を受け取っているということを知り政治に関心を持つようになった。彼は全南大に通い哲学から政治学に至るまで多様な書籍を渉猟した。ユン・ソクトン氏は力説する。"私の息子は決して共産主義者ではありません。単に熱心に仕事をする勤労者たちが当然に享受しなければならない公正な代価と平等な待遇に関心を持っただけのことです。" 光州抗争初期、ユン烈士は劇団‘広大’の団員らと共に外で起きていることを会報とビラにして配布した。彼は市民軍が武器倉庫を攻撃する先頭に立った。以後、占領した道庁での最後の日、ユン烈士は市民軍スポークスマンとして姿を表わした。5月26日、道庁で開いた記者会見でユン烈士は、米国が介入するならばもうこれ以上の流血事態は防げるだろう言った。しかし同時により一層かっきりと話した。彼と彼の同志はすでに死ぬ準備ができていると。

 ←空輸部隊員から牧師に変身したイ・ギョンナム
イ・ギョンナム氏は現在、京畿,平沢のある監理教会の牧師だ。1979年、彼は軍隊に入隊したばかりの駆け出しだった。彼は特殊訓練を受け光州抗争鎮圧のための空輸部隊員に選ばれた。“光州に行けとの指示が下り、私たちは翌日明け方2時に光州に到着しました。”初めは軍用トラックに乗って走りデモ隊を怖がらせ解散させたが、いくらも経たぬ内に兵士たちが殴り、刺し、殺し始めた。神学を勉強していた彼は善と悪の境界をよく知っていた。彼は暴力と殺人に加わらなかった。
5月24日、イ氏が乗った装甲車が光州-木浦間道路を通る間にロケット砲に当たり10分余りの銃撃戦が起きた。この銃撃戦で40人余りの負傷者が出た。イ氏は飛んでくる破片数十個に当たり、その場で意識を失った。後ほど空輸部隊と歩兵間の誤認射撃であったということを知った。“この誤認銃撃戦は兵士たちをより一層攻撃的にし、ついには部隊移動中に多くの近隣の村に向け無差別的に銃を乱射する結果を招いた。

←パク・ビョンジュンとナ・イルソン
パク・ビョンジュン(左側)氏とナ・イルソン氏、彼らは当時 市民軍の一員だった。パク氏は光州を守るために市民自らが武装した時を思い出しながら語る。“私たちはその時、本当に一つの心でした。市民皆が一つになって戦い、おばさんたちは私たちにおにぎりを配り力をくれました。”軍部隊が道庁を襲撃した時、彼は脚を銃により負傷した。その時、彼の母親が目の前にかすめるのを見た。だが、その他には何も覚えていない。以後、彼は左足を切断しなければならなかった。
ナ・イルソン氏、当時 彼の年齢19才。暴力が席巻した最初の日、彼の親戚は19才の彼を連れソウルに上京した。だが、彼は光州に戻ってくることを決め、5月23日から市民軍に合流した。彼の任務は食糧と車両のガソリン補給路を安全に警備することだった。その後、彼は逮捕され505保安隊で取り調べと拷問に遭った。今も医学的治療が必要な状態だ。

←ムン・クィドク
彼女は花のように美しい娘を失った精神的衝撃で、今も苦痛な毎日を送っている。1980年5月21日、当時17才の女子高生だった娘パク・クムヒ氏は、いつもどおりキリスト教病院で献血をし家に戻る際に彼女の乗ったバスが、待ち伏せしていた空輸部隊の銃撃を受け若い命を失った。“私の娘クムヒはただ献血をしたかっただけです。”娘は活動的で勉強もよくできる模範生だった。ムン氏は幼い娘の夢が学校卒業後、良い職場に入り大きな家へ引越しすることだったと回想する。“私の子供を失った後、その幼いものが死んでなくなって私の心も皆死んだ。”80才の彼女は心臓病とその合併症、うつ病で苦しんでいる。

←パク・サンチョル
パク・サンチョル氏は1980年、道庁付近に暮らしていた。当時14才だった彼は5月21日、デモ隊を見に道庁へ向かった。彼は道ばたに立っていた。その時、突然群衆に向けて戒厳軍が発砲し、そちらにいた多くの人々が負傷し命を失った。彼は当時の状況を回想し苦しげに話をつなぐ。“四方が血に染まり、涙の海でした。皆が生きるために必死に走って・・”彼は脊椎を銃で撃たれ、その後 車椅子から立ち上がることができなくなった。彼は今でも深刻な苦痛に苦しめられている。彼に必要な鎮痛剤は1ヶ月に500錠。この鎮痛剤は彼を朝起きれなくする。病院1ヶ所で入手できる鎮痛剤は彼が必要とする量より少なく、色々な病院に通い必要な量を集める。年に一回ずつソウルにある病院で2ヶ月程度入院し、床擦れを治療する。10年前には米国に渡り、そちらの医者の診察を受けたが不幸にして痛みは絶えることなく続いている。

被害者たちを捜し出し接触することは極めて大変だったが、驚くべきことに彼らは一旦接触できれば快く私たちに会ってくれた。彼らの大部分は5・18当時のわい曲報道のために韓国の言論を信じなかった。ドイツ人の私が歓待を受けた所以だろう。彼らは大きな感銘を与えてくれた。当時の苦痛な記憶を引き出すことは文字通りうんざりすることであるにも関わらず、多くの人々が私たちを慈愛深く迎えてくれ、時には何時間もの話を聞かせた。言葉では言い尽くせない苦痛の中でも素朴で謙虚でやさしく高潔な姿を見せた彼らの勇気に無限の尊敬を表す。対話をした後、私の重たい4×5カメラで写真を撮ってからは全てが楽しい経験だったと語った。

‘リメンバリング 光州’は韓国人と外国人の全てに向けたプロジェクトだ。それでも芸術家である私が、韓国人に彼らの歴史について教えようというのとは明らかに違う。ただし一異邦人の多少特別な視角を見せられればという期待だ。1980年5月のあの悲劇は決して忘れられてはいけない。

光州=写真・文 マティアス レイ

*展示会‘リメンバリング 光州’は5月17日(月)から25日(火)まで、光州北区の郷土文化センター チャミギャラリーで開かれます。

原文: http://h21.hani.co.kr/arti/photo/story/27332.html 訳J.S