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19歳で拉致され、韓国で67年…ようやく国家賠償が認められたものの(1)

登録:2023-03-04 04:06 修正:2023-03-04 08:56
[ハンギョレ21] 
寝ている時に韓国から北朝鮮に派遣された工作員に拉致 
キム・ジュサムさん(86)、国賠訴訟勝訴で賠償金10億ウォン 
政府はいまだに謝罪どころか連絡もなし 
「白ニョン島から見たら黄海道の家が分かる、オンマ…」
キム・ジュサムさん(86)は、韓国から北朝鮮に派遣された工作員に寝ている時に拉致された。67年がたった今も、母親の顔ははっきりと覚えていると語った//ハンギョレ新聞社

 若者は19歳で拉致され、今や86歳の老人となった。67年。ひどく長い歳月だった。家族と友人、夢と若さ、いや、一度きりの人生を根こそぎ奪われた歳月だった。2023年2月14日、キム・ジュサムさん(86、京畿道高陽市)は弁護士から勝訴の知らせを聞き、万感の思いだった。息を殺してひどい貧困、寂しさ、望郷の中で生きてきたこれまでの人生が、色あせた白黒映画のように頭の中をかすめた。

 その日、ソウル中央地裁民事合議37部(裁判長:パク・ソックン部長判事)は、1956年に韓国から派遣された工作員に北朝鮮から拉致されてきたキムさんが国を相手取って起こした損害賠償請求訴訟で、被告(国)に対して原告(キムさん)に10億ウォン(約1億500万円)の慰謝料を支払うよう命じる原告勝訴の判決を下した。裁判所は「(国はキムさんの)身体の自由、居住・移転の自由、幸福追求権など人間として当然享受すべき基本権を侵害する不法行為を行い、原告はこれによって甚大な精神的苦痛を受けた」と認めた。「家族と生き別れ、強制労働で大切な青春が犠牲になった苦しみは一生癒されない」とも述べた。

雑用として働かされた、報酬はなかった

 裁判で国は、キムさんの損害賠償請求権は消滅時効が過ぎていると主張した。しかし裁判所は「国の傘下の『真実・和解のための過去事整理委員会(真実和解委)』が犠牲者と規定した人物に対して国が消滅時効の完成を主張することは、信義誠実の原則に反し権利乱用に当たる」という趣旨の最高裁判決(2013タ16602)を引用し、キムさん勝訴の判決を下した。大韓民国の裁判所が、北朝鮮に派遣された工作員が北朝鮮住民を拉致した事実と国の賠償責任を認めたのは、今回が初。

 いったい何があったのだろうか。2月20日、「ハンギョレ21」は京畿道高陽市(コヤンシ)のキムさんの自宅で、キムさんと妻のイ・スンジャさん(80)に自身の歩んできた人生について語ってもらった。床型ベッドがひとつ置かれた狭い居間と小部屋1間、トイレのついた14坪の永久賃貸の住宅公社アパートだった。

 キムさんの故郷は北朝鮮の黄海道龍淵郡龍淵邑(ヨンヨングン・ヨンヨヌプ)の海辺の村だ。ファン・ソギョンの小説『張吉山』に出てくる長山串(チャンサンゴッ)の鷹の話でよく知られる長山串は西に20キロあまり。南には海の向こうに韓国の最北端の島である白ニョン島(ペンニョンド)が肉眼で見える。朝鮮戦争の砲火が休戦協定でやんで3年が過ぎた1956年10月10日深夜、当時は入学の遅れた中学生で5人きょうだいの長男だったキムさんは、弟妹たちと眠っていた。

 「母はいませんでした。病院の食堂で働いていてそこに泊まっていたんです。昼に家に帰ってきてはまた出勤して。私たちだけで寝ていたら、突然3人の軍人が部屋に押し入ってきて私を起こして『行こう』と言うんです。銃を突きつけて。驚きすぎて一言も言えませんでした。弟たちも目を覚ましたはずなのに怖くて動けずにいたんでしょう」

拉致されて67年にして国から賠償を受けることになったキム・ジュサムさん(86)が2023年2月20日、京畿道高陽市の自宅でポーズを取っている。壁にはキムさんと妻のイ・スンジャさんの若い頃の写真と、娘が模写したゴッホのひまわりがかかっている//ハンギョレ新聞社

1956年空軍諜報隊「敵地から誰か拉致して来い」

 キムさんは真っ暗な海岸で待機していた木船に乗せられ、白ニョン島に連れて行かれた。文字通り「寝耳に水」だった。それ以来、家族とは生き別れになっている。キムさんは今も母親のことを「オンマ」と呼ぶ。突如として消えた長男を思って世を去ったであろう母親は、90歳を目前にしたキムさんにとっては今も19歳の少年の「オンマ」として残っていた。「オンマの顔は今でも覚えてる。弟たちはぼんやりしている。父は(私が)小さい時に亡くなりました」

 当時、韓国空軍諜報隊の白ニョン島派遣隊は、黄海道出身の青年たちを募集し、北朝鮮派遣工作員として訓練を施し、特殊任務を指示した。「敵地に入って誰かを拉致して来い」。工作員たちは夜陰に乗じて北朝鮮の地に潜入し、人里離れた海辺の3、4軒の民家の中の1軒から、いちばん年上の男性を連れてきた。キム・ジュサムさんの運命が変わった瞬間だった。キムさんは白ニョン島と仁川(インチョン)を経て、ソウル九老区梧柳洞(クログ・オリュドン)所在の軍部隊に抑留された。韓国空軍諜報隊と米軍諜報部隊の共同基地だった。

 「部隊に連れてこられて調査を受けました。学校はどこに通っていたのか。人民軍の部隊はどこにあるのか。橋はどこにあるのか。そんなことばかり聞いてきたんです。何年もそうして閉じ込められていたんです。日付も分からなかった」

 韓国と米国の軍情報当局は、中学生のキム・ジュサムから軍事情報を引き出そうとして1年近く入れ代わり立ち代わり尋問したが、重要な情報が得られるはずはなかった。かといって送り返すこともできなかった諜報隊は、キムさんを雑用係として働かせた。最初の数カ月間は米軍諜報隊で「ショーリー(shorty、ちび)」と呼ばれ、靴磨きのような雑用をした。以降、米軍部隊と韓国軍諜報隊が統合運営する輸送部で、ありとあらゆる雑用をこなした。報酬などなかった。

 「中学生だといっても何も知りませんでした。いろんな人にさせられる使い走りや雑用をたくさんした。飯は部隊の食堂で食べて」。隣にいた妻のイ・スンジャさんが耳の遠いキムさんに助け舟を出した。「食事の時間を逃したらご飯もちゃんと食べられなかったそうです。使い走りや雑用をして、ご飯が出てくる時間に間に合わなくてご飯がなくなってしまっていたら、他人の食べ残しを食べたりしたそうです。口では言えないほど苦労したっていうこと」

(2につづく)

文/チョ・イルチュン先任記者、写真/キム・ジンス先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/1081401.html韓国語原文入力:2023-02-27 15:52
訳D.K

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