本文に移動

[ハンギョレ21 2010.01.29第796号] 朝鮮人密集地域に爆撃集中

[企画]東京大空襲の時に亡くなった韓国人 推定 1万人… 2005年に調査始まり遺族確認中(1647字)

□キル・ユンヒョン

←1923年関東大地震の時の朝鮮人犠牲者と東京大空襲の時の朝鮮人犠牲者の遺骨箱(下)が保管された東京横網町の慰霊堂(上). ハンギョレ資料

1945年3月10日、日本の首都東京を火の海にした‘東京大空襲’は、韓国人には忘れられた爆撃だ。当時‘空の要塞’と呼ばれたB29爆撃機325機が動員されたこの日の空襲で亡くなった人は少なくとも8万3793人(当時、日本警視庁調査)から10万人余りに達すると推測される。これらは全て日本人だったか?
偶然に渡されたメモの朝鮮人の名前

日本の‘東京朝鮮人強制連行真相調査団’(以下 調査団)と‘東京大空襲朝鮮人犠牲者追慕会’は10万人余りの犠牲者の内10%にあたる1万人余りが朝鮮人だったと見ている。その結論に至る過程は平坦ではなかった。最近まで東京大空襲研究は日本人の被害状況に集中していただけに、犠牲者の相当数が朝鮮人であることもありうるという点までは考えが及ばなかったためだ。その当然の結果として東京大空襲により朝鮮人何人が、どこで、どのようにして亡くなり、彼らの遺骨は今どのようになっているかに対する研究はほとんどなされていなかった。

忘れられた朝鮮人犠牲者問題が注目され始めたのは、2005年10月の偶然な事件が契機となった。東京から南に287km離れた八丈島の朝鮮人強制連行実態を調査したイ・イルマン調査団事務局長は偶然に<朝日新聞>記者から東京大空襲の時に死亡した朝鮮人3人の名前が書かれたメモを渡される。死亡者の名のあるからには彼らの名簿もある筈と判断したイ事務局長は、国立中央図書館など日本の有名な図書館資料室を検索し始めた。

調査団はついに東京,千代田区の日本教育会館図書館で1974年3月美濃部亮吉(1904~1984)が東京都知事時期に作成した<戦後30年-東京都慰霊堂に眠る戦災死者>名簿を捜し出した。調査団はこの名簿の中に創氏改名はされていたが朝鮮の人の名前としか考えられない名前50人分を捜し出した。

当時、日本に強制動員されていた朝鮮人たちは軍需工場が密集した本所区(現在の墨田区),深川区,城東区(現在の江東区)等の工場寄宿舎と庶民住宅に集団居住していた。これは不幸にも米軍の爆撃が集中したところと正確に一致する。イ・イルマン事務局長は1945年9月現在、東京の朝鮮人戦災者数(4万1300人)等に基づき東京大空襲で亡くなった朝鮮人が少なくとも1万人に達するという推定値を提示した。以後、東京大空襲戦災資料センターなど日本の学界でも大部分がこの見解に従っている。

遺族招請し慰霊祭挙行

この間、南と北では被害者と遺族が一つ二つと確認されているところだ。調査団は2008年2月、韓国の‘日帝強制占領下強制動員被害真相究明委員会’の助けを受け、東京大空襲犠牲者である故ファン・スダル(死亡当時 24才)氏の子息ファン・ビョンファン(71)氏と故キム・ポンソク(死亡当時 32)氏の息女キム・クムナン(71)氏を東京に招請し質素な慰霊祭を開いた。北韓では2009年8月‘朝鮮日本軍慰安婦および強制連行被害者補償対策委員会’を通じて平安北道江界郡出身の故ソン・ジョンホ(1930~2009)氏の証言を確保することができた。イ事務局長は「ソン氏が昨年8月亡くなる直前に残した証言を通じて日帝の強制動員実態と東京大空襲当時の朝鮮人たちの被害状況をさらに明確に知ることが出来ることになるよう願う」と話した。

キル・ユンヒョン記者 ハンギョレ日帝強制占領100年特別取材チーム

原文: http://h21.hani.co.kr/arti/special/special_general/26643.html 訳J.S