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民主化運動史の‘見えざる手’金載圭(キム・ジェギュ)資料集 出版し懲役3年刑

原文入力:2011/10/24 20:48(1786字)
キム・ギョンエ記者


その時 その人 印刷屋 カン・ウンギ氏


←維新時代‘P’という隠語で呼ばれた運動圏の印刷物の大部分を献身的に印刷した‘印刷屋’カン・ウンギ氏が2002年のすい臓癌発病以前にソウル、乙支路(ウルチロ)のセジン印刷文化社前に立っている。 娘のカン・シニョン氏が代を引き継いでいる。 民主化運動記念事業会提供


2002年12月頃、民主化運動記念事業会が出した<希望世相>をざっと見て驚いた。そこには‘印刷屋’カン・ウンギがその年の11月9日、持病で死亡し民主社会葬で磨石(マソク)、牡丹(モラン)公園の民主要人墓地に埋められたという記事が載っていた。

私は彼にただの一度も会ってみることはできなかったが、いつも借金を負っている感じだった。いつかは彼に会って感謝みを表わし心より謝罪したかったが今は謝罪する機会を永遠に失った。


1980年春、金載圭救命運動のために編集し出した‘金載圭と10・26’に関する資料集は全斗煥新軍部の戒厳の刃を避けるためにすべての過程を秘密裏に進行しなければならなかった。表紙さえ白紙にした。


印刷は拘束者家族協議会の総務キム・ハンリム先生(1993年死亡)が引き受け、印刷費用は天主教正義具現司祭団の支援を受けた。 私たちは約束された時間に相当な分量の本を引き取った。ところが私たちが本を受け取った数時間後に公安当局の急襲を受け印刷所に残っていた本は押収された。印刷所の主人は捕えられ懲役3年の刑に服し、キム・ハンリム先生は67才の老齢で2~3年間の手配生活に耐えなければならなかった。


だが、その印刷所の主人がまさにカン・ウンギであるとはそれまで知らなかった。79年YH貿易女性労働者闘争記、5・18光州民衆抗争関連画報集、清渓被覆労組合法化闘争、民青連・民統連機関紙、ソウル大キム・セジン資料集等々、私もずっと受け取っていたし、時には創刊辞のような文を書いたりもした それらすべての資料の印刷を彼がしていたという事実も、無関心だった私だけが知らずにいたのだ。


事実、民主化運動の全過程を顧みれば必ず必要な時に必ず役割を果たす人がいた。奇跡のようなその見えざる手の一つがまさにカン・ウンギだったのだ。


彼と民主化運動の連結輪は中学校の同窓生イ・ヘハクであった。72年パク・ヒョンギュ牧師が率いた貧民布教団体である首都圏特殊地域布教委員会が発表した‘72年信仰告白書’宣言文を小冊子として製作しようと思った時、イ牧師が印刷工として仕事をした彼を紹介したのだった。彼は職員たちをみな退勤させた後、門を閉め活版印刷の前工程を一人で全てやり遂げた。 寒い夜、かちかちに凍りついた手で活字を選び、組版をして、校正を見て、印刷をかけ、製本までして翌朝には間違いなく鍾路(チョンノ)5街に納品した。以後、彼は捕えられ入らなかった警察署や情報機関はなかった。恐らく南営洞(ナミョンドン)にまで捕えられ大変な苦労をした印刷人はカン・ウンギの外にはないだろう。


一時、仏教に帰依したりもした彼には‘道人’というニックネームのように無涯の境地があった。彼は勉強に渇望することもなく、社会的な欲もなかった。ツケを払ってくれと言わず、金にこだわりもしなかった。1988年9月3日、組版・オフセット印刷・ラミネート・表紙・装丁・図案・企画分野従事者24人で一緒に‘印刷文化運動協議会’を作り初代会長になったのが彼の公式社会活動の全てだったが、その同志たちが90年代に解散する時も彼は淡々としていたという。


いつか誰かが彼になぜ勉強しようと思わないかと尋ねるや「勉強してみても博識にしかなれない。 私はむしろ‘無’を知る人になる」と言ったという。 恐らく今頃カン・ウンギは連行と監視、拘留と拘束がない世の中でゆうゆう逍遥遊しているだろう。 カン・ウンギ先生よ、こいつのふつつかさと非礼もはっはと笑って許されよ。

整理 キム・ギョンエ記者 ccandori@hani.co.kr


原文: https://www.hani.co.kr/arti/politics/bluehouse/502249.html 訳J.S