原文入力:2011-05-20午後09:32:23(1614字)
自叙伝出版記念 故国を訪ねたノルウェー‘ミスターリー’イ・チョルホ氏
韓国戦争時にノルウェー行、苦難の末にラーメン市場 席巻
"欲をかかずに…2つの祖国に借金返し、残る人生を生きなければね"
イム・ジョンオブ記者
←イ・チョルホ氏
"私が幾つまで生きますか。 およそ200年? 私は欲はかきません。 私がいなくとも韓国-ノルウェーの関係が円満なことを望むだけです。" 20日、ソウルのあるホテルで会った‘ノルウェーのラーメン王’イ・チョルホ(75・写真)氏は自身を育ててくれた韓国と、命を救ってくれたノルウェーに報いるために余生を捧げるつもりだと話した。
自叙伝<それでも最後まであきらめるな>(ジニネット)出版に合わせて韓国に来た彼は、その間熱心に仕事をしながら国に捧げた税金が多いので老後は心配していないとして笑った。彼は韓国人の顔をしているが福祉の国ノルウェー人の考え方を持っていた。
"私が生きていくのはできますね。三人の娘も良く育ちましたし。これからは私が作った借りを返して生きなくてはね。"
本には彼が1954年、米軍部隊の‘ハウスボーイ’をしていて大ケガをしてノルウェーの病院へ移送された後、現地に居残り色々な苦難の末にホテル料理人、レストラン兼カフェ チェーン店代表を経て‘ラーメン王’として成功するまで立志伝的な人生の記を盛り込んだ。
←17才の時にノルウェーに渡った後、オスロ グランドホテルの料理人として仕事をした1963~64年頃の姿(右側).
彼が料理人になろうとしたのは飢えて死なないために、「残りカスでも食べられそうだったから」であった。流通期限が過ぎたパンを水に浸してかみながら苦学で料理学校を出てスイスのホテル見習生として第一歩を踏み出した。「常に笑おう。今ここで最善を尽くそう」をいつも胸に刻んだ。人が皿20個を磨けば50個を磨き、人がジャガイモをそのまま削れば自身は料理に合うように格好をつけて削った。熱心に働く姿が目について正式料理人になった。だが頂上に達した後には未練なくその場を捨てた。チェーン店代表を止める時は自身が起こした業者がデンマークへ渡るや他人の子供になったようだったからであり、ノルウェー市場の95%を占有した‘ミスターリー’商標権を大企業に渡したのも頂点に達してこれ以上は自分がすべき仕事がなくなったためだ。
←韓国戦争の時、家族と別れて負傷して米軍部隊で‘ハウスボーイ’として仕事をした少年時期のイ・チョルホ氏
一度にいろいろ仕事をするのは彼の長い間の習慣だといった。韓国にきたついでに龍山戦争記念館の中に韓国戦当時の国連事務総長だったTrygve Halvdan Lieを賛える空間を用意した。「その方が韓国を生かしたという事実を人々がよく知りません。ソ連が参加しないことを知り、国連安全保障理事会を開き国連軍参戦を成功させましたよ。それなりの人なら知っていなければならないでしょう。」 彼は韓国戦当時、ノルウェー軍医官と看護師がどれくらい韓国のために努力したかを説明した。 「ノルウェー軍の東豆川野戦病院で韓国人をたくさん治療しました。私もその中の一人です。戦争後にも残ってスイス・スウェーデンと共にたてたソウルの国立医療院、麻浦子供病院、大田結核病院などで診療し韓国人医師を養成しました。日帝は韓国人医師を育てなかったではないですか?"
文 イム・ジョンオブ先任記者 blitz@hani.co.kr
写真シン・ソヨン記者 viator@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/479048.html 訳J.S