原文入力:2011-05-15午後03:37:40(3915字)
5・16クーデター 50年…再び選びたい大統領 1位の恥ずかしい親日行跡
日本通 経済学者が書いた<独島密約>…対日低姿勢外交 逐一暴く
キム・ドヒョン記者
←朴正熙は日本極右派の政治思想を借りてきた。彼は日本青年将校らの2.26事件を参考に5.16クーデターを起こした。
16日は陸軍小将 朴正熙がキム・ジョンピルなど一団の青年将校を率いてクーデターを敢行し50年になる日だ。
クーデター成功から半世紀、死後32年が過ぎた今も朴正熙の人気が高いと言える。より良い民主主義研究所(所長 ぺク・ウォンウ民主党議員)が世論調査専門機関‘リサーチビュー’に依頼し9~10日の2日間、自動応答方式世論調査を通じて990人を対象に前・現職大統領が再出馬した場合、支持意向を問うた結果(複数応答) 57.5%の支持率を得て盧武鉉(47.4%)金大中(39.3%)李明博(16.1%)を抜き1位を占めた。朴正熙は再出馬すれば支持しないという意見でも最も低かった。
朴槿恵前ハンナラ党代表が次期大統領選挙走者候補としての支持度を問う各種調査で1位を占めているのも、父親 朴正熙の後光に力づけられた面が大きい。
再び選びたい大統領 1位、‘朴正熙神話’の裏面
‘祖国近代化と経済復興の指導者’という朴正熙イメージが歳月が流れても容易に色褪せないまま、ある面では神話化しているということだ。
朴正熙政権が1965年6月22日、日韓基本条約を締結し日本政府から資金(3億ドルの無償資金と2億ドルの長期低利政府借款、および3億ドル以上の商業借款)を祖国近代化の元手として用意したことは広く知られた事実だ。しかし、李承晩政権時から14年ぶりの韓-日国交正常化会談の妥結は日本側に多くのことを譲歩した代価であった。
16日に発刊される本<独島密約>は朴正熙の韓日会談を巡る低姿勢外交、親日行跡、日本の独島領有権主張への口実提供行為など、朴正熙の神話裏面に隠れたまた別の実体を逐一暴露し注目を引く。
日本通の政治経済学者が書いた<独島密約>
韓日会談を巡る朴正熙の親日行跡暴露
日本通の政治経済学者 ノ・ダニエルが書いたこの本によれば、クーデターに成功して5ヶ月にもならない1961年11月12日、朴正熙は池田勇人 当時総理との公式会談でこのように話した。
"革命を成しとげた人間として感じることは韓-日両国が運命共同体だということです。我々の革命政府はこの機会を失わずに韓日会談が早期に妥結することを願っています。日本が韓日問題に対し心から誠意を見せるならば、我々は(李承晩の)自由党政権のように多くの請求権資金を要求するつもりはありません。場合によっては政治的賠償などを要求しません。"
日本の支援資金を必要とした朴正熙は、自身の気持ちをそのまま表わして見せたのだ。ノ・ダニエルは「このような朴正熙の話は池田には願ってもないニュースだったに違いなかった」とし「このように両国首脳の会談は簡潔だったが以後、国交を正常化するという約束の基本精神となった」と評価した。
首脳会談に続いて日本政界の大物が一堂に集まった赤坂の料亭‘川崎’での昼食会で朴正熙は自身の心をより一層 露骨に表わした。
朴正熙“よろしくお願い致します”礼儀正しい日本式挨拶
←朴正熙前大統領が満州軍官学校と日本陸軍士官学校を卒業した後、少尉に任官する直前の1944年6月末、‘見習士官’当時の姿。 資料写真
朴正熙は畳の上に両手をついて礼儀正しく日本式挨拶をし このように話した。「よろしくお願いします。私には若いということ以外に特別な財産がありません。未熟な書生をよろしくご指導願います。」
著者ノ・ダニエルは「流ちょうな日本語挨拶は一国の指導者ではなく、後輩のそれだった」と指摘した。
朴正熙は首脳会談で日本の指導者らを安心させるために自身の親日経歴を動員することさえした。韓国側は首脳会談の晩餐の席に朴正熙の満州新京軍官学校校長を歴任した南雲親一郎(1886~1963)という予備役中将を出席させ、恩師と子弟の美しい再会シーンを演出し情に弱い日本政治家らの胸に響かせ警戒心を解かせたとのことがノ・ダニエルの主張だ。
南雲が校長時代の1944年、朴正熙は3等の優秀な成績で卒業し、日本陸軍士官学校に留学することになる。
南雲はこのように挨拶をしたという。「弟子の中から一国の最高指導者が出てきたことについて、私は涙が出るほど光栄に思います。私は朴将軍をよく覚えていないが、朴将軍はいつも高麗人参を送って下さり、おかげでこのように元気に過ごしています。」
朴正熙に親しみを感じていた岸信介前総理(安倍晋三前総理の母方の祖父)は朴正熙を料亭 賀寿老に招いた。彼は自身の回顧録で当時、朴正熙がしたという話をこのように書いている。
“朴正熙、軍事革命の時、明治維新の志士たちを思い浮かべた”
“自分たちのような若い陸軍軍人が軍事革命に決起したのは救国の一念で燃え上がったためであり、日本の明治維新の志士たちを思い浮かべたのです。あなたの先輩である吉田松陰先生と高杉晋作、そして久坂玄瑞たちのようにしたと”
著者はそれに対して「朴正熙は岸をはじめとして日本の政治家たちが尊敬する幕末の志士の精神に見習い‘彼らのように’日本の明治維新に相応する‘上からの革命’を韓国でも展開したいという野望を明らかにしただろう」と評価した。
1948~1950, 1958~1963年に駐韓米国大使館で政務参事官を勤めたグレゴリー・ヘンダーソンは自身の著書で、朴正熙を中心とする革命勢力の統治スタイルに対してかつての日本軍のクーデターを模倣したものと評価した。
“上級将校は1930年序盤、日本青年将校集団が日本の文官政治に対し実力行使をしたクーデタを頭の中に描いていた。”
韓日会談の最大障害物 独島問題…独島密約はどのように進行されたか
←1964年6月3日、朴正熙政権は非常戒厳令を宣言し韓日会談反対デモ隊を鎮圧した。当時デモの先頭に立った大学生らを中心に誕生した‘6・3世代’は以後、維新独裁打倒闘争の前面に立つことになる。
朴正熙が韓日会談をどれほど急いだかは韓日会談の最大障害物だったいわゆる独島問題に対し‘未解決の解決’を試みた日本政府と独島密約を締結したことにも如実にあらわれている。
朴正熙は外務長官、駐日韓国大使など公式交渉窓口を排除したまま、キム・ジョンピルの実兄で日本通のキム・ジョンナクを動員し水面下交渉を任せ、結局「独島・竹島問題は、解決しなければならないということで解決したものと見なす。したがって条約では言及しない」という密約を成功させたとノ・ダニエルはこの本で暴露した。
特に独島密約の1項は「両国は自国の領土と主張することを認め、同時にそれに反論することに異論がない」と許容することにより、日本政府に結局 独島密約を根拠に毎年領有権主張ができる口実を提供した。
朴正熙は1965年2月17日、韓日会談を公式に終えるためにソウルを訪問した椎名悦三郎外相の歓迎晩餐の時、将軍らを応援団として動員するまでした。
ノ・ダニエルは「5・16主導勢力と12・12主導勢力のまた別の共通点は、両者とも‘朴正熙ファンクラブ’に近い集まりとして朴正熙の価値観と世界観、特に日本に対する観念を共有していた」と指摘した。ハナ会メンバーらである12・12主導勢力は何より朴正熙が見せた日本式軍人精神に憧憬を持っていたということだ。彼らは日本の女流小説家 山崎豊子の長編小説<不毛地帯>を愛読し、その主人公の実在モデルである伊藤忠商事の瀬島龍三(2次世界大戦当時 作戦参謀)を尊敬していた。
軍人 親日主義者らの独島密約精神は盧泰愚まで続く
実際、瀬島はハナ会出身の全斗煥、盧泰愚に自身が影響を及ぼしたと回顧録の<幾山河>で述懐した。
“昭和55年(1980年) 3月頃、イ・ビョンチョル会長から連絡がきて‘一度必ず訪韓し軍の先輩として全斗煥、盧泰愚の2将軍を励まし助言することを望む。経済関係の問題もあるので東急グループ会長の五島昇氏も同行されたら良いだろう’と要請してきた。五藤氏もこの要請を受け入れ、その年の6月二人で訪韓した。韓国側の案内役はクォン・イキョン(当時 三星物産常務、陸軍士官学校11期で後日 民主正義党代表)氏で、彼の案内により全将軍、盧将軍に会った」
ノ・ダニエルは‘軍人親日主義’は本能に近いものだと指摘した。
“朴正熙政権に続き全斗煥・盧泰愚の2つの軍事政権が存続した1993年まで、いわゆる軍人親日主義は持続した。彼自身を含め韓国の職業軍人は基本的に親日主義の世界観を持っていた。かつて満州軍官学校や日帝の陸軍士官学校を卒業した先輩たちを誇らしく思う彼らにとって、日本と仲良くするということは本能に近い観念だった”
独島密約の精神が朴正熙時代を越え、全斗煥と盧泰愚まで続いたことも、こういう背景があるとノ・ダニエルは強調した。
キム・ドヒョン先任記者/ツイッター@aip209
原文: https://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/477977.html 訳J.S