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あー!崇礼門…100余年前原形写真公開

原文入力:2009-02-08午前11:47:07
ソウル城郭連結した過去の姿そっくり入れて

←(ソウル=聯合ニュース) 1910年前後に撮ったものと推定される崇礼門。鹽倉橋側から撮ったものであり崇礼門扁額文字がかすかに見え右側には監視用望楼が設置されており、入口には正体不明な石灯が立っている。日帝が都城の気勢を塞ごうと門入口に巫俗制を上げるための石灯をたてたと見られる。チョン・ソンギル啓明大東山医療院名誉博物館長によって発見された写真だ。

日帝によって崇礼門が毀損される前の、今から100余年前ソウル城郭と連結している崇礼門の原形を見せる写真3点が崇礼門火災1年を控えた8日公開された。

この写真らは1883年済物浦(チェムルポ)で朝鮮最初の貿易会社である'セチャン洋行'を設立したドイツ人エドワルド・マイヤーの子孫が遺品として大切に保管してきたものなどで、チョン・ソンギル(68)啓明大東山医療院名誉博物館長が発掘した。

チョン館長は「崇礼門の原形をまともに復元し保存することができるようにしようと写真を公開するもの」としながら「崇礼門と連結した城郭位置と形態さえ明確に知らない私たちの子孫がどれくらい無関心だったのかを深く省察する必要がある」と話した。

3点すべてソウル城郭が連結した南山側から崇礼門を眺める方向で焦点が合わされた。

この内、1880年代に撮ったと推定される写真(1番)は霧が立ち込めた日撮影したようで曇る画面の中に一幅の絵のように崇礼門の姿が表われている。

また1890年代初めに撮ったと見られる崇礼門写真(2番)は崇礼門と連結した部分のソウル城郭の様子が敵軍の侵入を防ぐために門周辺部の城郭を狭くした甕城であったことを如実に示す。

文化財庁は現在進行中の崇礼門復旧の時、1907-1909年日帝が崩し現在は傾斜面形態(三角形)としてだけ残っている左右側城郭の一部も復元する予定なので今回公開された写真が城郭復元作業にも参考資料になると期待される。

この写真の場合、城郭内側に城郭について立つわらぶきの家と背負子を背負った人,城外を見通す韓服姿の子供など当時の社会像も垣間見ることができる。

やはり1890年代初めに撮ったと推定されるまた別の角度の崇礼門写真(3番)は母岳峠(ムアクチェ)方向と西大門城郭を一緒に入れている。

一方、チョン館長は城外の鹽倉橋側から撮影された日帝強制支配期の崇礼門の痛々しい過去を見せるもう一枚の写真(4番)を共に公開した。

この写真は崇礼門周辺城郭がすでに崩れた後の1910年前後に撮影されたと推定されるが、崇礼門扁額文字がかすかに見える中で右側に監視用望楼が設置されており崇礼門入口には正体が疑わしい石灯が立っている。
これと関連して、チョン館長は「日帝が1937年白頭山に鉄杭を打ち込んで巫俗制を上げたように崇礼門でも都城の気勢を塞ごうと門入口に巫俗制を上げるための石灯をたてたと判断される」と話した。

日本が園丘壇(ウォングダン)を撤去した後、その場に鉄道ホテルを建て光化門の位置を移し自分たちが新宮を建てた南山に向かうようにしたように、私たちの民族のアイデンティティをわい曲し伝統文化を抹殺しようとしたもう一つの事例だという主張だ。

(ソウル=聯合ニュース)

←(ソウル=聯合ニュース)今から100余年前とったと推定される崇礼門(スンネムン)の姿. 1880年代撮影と推定されて霧立ち込めた日とって曇る画面の中の姿が一幅の絵のように見える。

 

←(ソウル=聯合ニュース)今から100余年前とったと推定される崇礼門(スンネムン)の姿. 1890年代撮影と推定されて崇礼門(スンネムン)と連結した部分のソウル城郭形態が敵軍の侵入を防ぐために文周辺部の城郭を狭くさせた甕城であったのを知ることが出来る。

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/337482.html

原文: 訳J.S