原文入力:2010-08-13午後08:00:44(4834字)
東北アジア秩序 構築過程で発端
1947年基点に‘攻勢本格化’
米国立文書庫 10余年間 くまなく探し
米国の‘決定的役割’明らかに
ハン・スンドン記者、キム・テヒョン記者
←日本人の不法占拠と銃撃事態が起き、領有権紛争の兆しを呈し始めた1947年初め、独島調査団団員らを乗せ独島に上陸した海岸警備隊隊員ら。トルペゲ提供
←<独島 1947>
<独島 1947>
チョン・ビョンジュン著/トルペゲ・5万ウォン
1951年8月10日、ヤン・ユチャン当時駐米韓国大使に対日平和条約(サンフランシスコ講和条約)に関する米国政府の最終的立場が込められたディーン ラスク米国務部極東担当次官補名義の通知文(‘ラスク書簡’)が伝えられた。
"独島、別名は竹島あるいはリアンクール岩と呼ばれるその島に対する我々の情報によれば、通常 人が居住しないこの岩の塊りは韓国の一部として取り扱われたことがなく、1905年以来 日本、島根県隠岐島司管轄下に置かれていた。韓国は以前に この島に対し(権利を)主張したことがない。"
約一月後のその年9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結され翌年4月から発効された。初めに対馬返還を要求し米国の拒否にぶつかるや、再び独島と波浪島(離於島)の配属を要求した韓国の願いはラスク書簡が言うように水の泡となった。日本はそれを‘竹島は日本の領土’に対する国際的保証と読んだ。今日の‘独島問題’はそこから始まった。その4ヶ月前、ジョン フォスター・ダラス米大統領対日講和条約担当特使は、韓国が対日交戦国および連合国の一員として条約署名国の地位を与えるべきというヤン・ユチャン大使の要求を断った。
ラスク書簡以後、日本の独島攻勢が本格的に繰り広げられる。米国は条約で済州道と巨文島、鬱陵島が日本領土から排除されるという内容の他に、独島に対するいかなる領土規定も除いてしまったまま曖昧な中立的立場を強調しつつ、日本と韓国が両者会談を通じて問題を解決しろと受け渡した。だがその時、今しがた生まれ、猛烈な戦火を受けていた分断弱小国 韓国に、日本との両者協議解決方式は日本の思い通りにしろということに等しかった。絶対劣勢の中ですべてをのがした韓国は、海洋主権宣言(平和線)を通じて損失を挽回しようとしたが、米国の一方的後援の中ですべての準備をし相手国の戦乱を天佑神助の機会にした日本は、いわゆる右翼たちの低劣な‘妄言’騒ぎとともに韓国を無情に蔑視した。サンフランシスコ講和条約は第2次大戦の終結を意味する単純な戦後処理手続きではなかった。ソ連と中国も排除されたサンフランシスコ条約は、戦争当事国どうしの全面講和ではなく、事実上 米国-日本間の単独講和であり、反共・反ソ冷戦体制を本格的に組み始めた米国の親米的 且つ保守的な日本再建プログラムだった。韓半島は独島を喪失する危機に陥った程度でなく、今日にまで影を垂らしている長期間の‘サンフランシスコ体制’、米国が主導した東アジア秩序再編の最も痛恨な犠牲物となった。
<朝鮮戦争-38度線 衝突と戦争の形成>などの印象的な研究成果を出した優れた韓国現代史研究者チョン・ビョンジュン梨花女子大副教授の<独島 1947>は独島問題を“(韓-日間の)歴史的領有権問題というよりは、サンフランシスコ平和会談が構築した戦後体制、すなわち東北アジアの基本秩序となったサンフランシスコ体制の形成過程で派生した”国際政治的問題として接近する、斬新な視角が際立って見える力作だ。チョン教授が見るには、独島問題は韓-日間の問題というよりは韓-米-日間の問題であり、その中でも米国が勝敗を左右する決定的な介入者として登場する問題だ。この本を読む人々は独島問題がまさに米国の問題でもあるという事実を衝撃的に受け入れることになるかもしれない。
←1951年10月、日本外務省が衆議院(国会)に提出した<日本領域図>ここにも独島(竹島)が韓国(朝鮮)領土と表示されている。
米国が1947年に対日講和条約草案作り作業を始めてから日本の肩を持ったのではない。特に独島帰属問題に対して米国は1949年末まで‘独島は韓国領土’という態度を明らかに堅持していた。韓国も国家樹立以前の1947年から独島など日本に奪われた土地と権利の検索作業を本格化した。日本もやはりその年から差し迫った講和条約準備態勢に突入し、1905年の露日戦争時期に韓国領土と明らかに知りながら策略を通じて島根県に独島を編入させた過去戦略を戦後も複製し‘竹島’(独島)が本来 日本固有の領土であることを宣伝する虚構を体系的にねつ造し始める。1947年6月に日本外務省が出したパンフレット シリーズ<日本の付属小島>第4冊に独島が登場し始めるが、ディーン ラスク次官補書簡に凝縮された独島に対する深刻な対日偏向、そして1949~1951年駐日米国政治顧問であり連合軍最高司令部外交局長を務め‘独島は韓国領土’という米国政府の既存見解を‘竹島は日本領土’に完全に変えるのに決定的役割を果たしたウィリアム シーボルトなど駐日米国外交官たちの親日行為が、まさにそのパンフレット シリーズの計画的なねつ造を土壌とみなし繁茂した。このように韓、米、日で戦後独島問題の分岐点となった動きが本格化した年が1947年であり、それで本の題名もそのように付けた。
1947年と言えば‘トルーマン ドクトリン’が発表され、今や米-ソ連冷戦体制が回り始める年でもある。そして2年後、中国が共産化し、また、その1年後には朝鮮戦争が勃発し米国はその時までの懲罰的日本再建構想を非懲罰的で寛大な構想側に急旋回(いわゆる‘逆コース’)しながら冷戦橋頭堡としての日本の戦略的価値を再評価し、その辺境である韓国の独島問題提起をむしろ障害物と感じながら迅速な対日講和、そのために迅速な独島問題解決を試み、それは事実上 日本の手をあげることに帰着した。だが、ダラスは部下たちに中立的な姿を保つよう要求した。それは植民支配という強者の横暴の犠牲となった弱小国 韓国の悲痛な過去に対する同情のためではなく、米国自身が支えてあげている西側的価値の優越性を象徴する冷戦第一線のショーウィンドーとしての韓国の顕在的価値に注目したためだ。そこで、彼は独島に対する米国の立場は講和条約に署名した多くの国家の中の一つであるにすぎず、日本や韓国の領土紛争に介入したり安定させる責任を負ってはならないという原則を掲げた。だが、それはジェスチャーに過ぎなかった。例えば、独島を米軍機の爆撃練習場に指定するよう米軍を引き込んだ後、またその指定を解除する仲裁者の役割を引き受けることにより独島に対する領有権を事実上自国が持っているということを既定事実化しようとしていた日本の策略と術数を米国は知りながらも受け入れた。
“この本が扱った資料、構成、論理、接近方法、そして事実は既成のものとは違った新しい環境と段階を開いてくれるだろう。誠実な読者には新天地、或いはそれ以上の可能性を示すだろう。”著者がこのように自信を持つのは、処理方式の差別性の他に、もう一つ核心的要素が手伝っている。1千ページに達する膨大なこの本の緻密な論証を支えてくれるものが、主に米国立文書記録管理庁(NARA)で捜し出した1次史料だという点だ。1970年代から機密解除され始めた米国の韓国関連資料をチョン・ビョンジュン教授は直接現場でめくった。2005年、彼がジョン フォスター・ダラス文書綴りから捜し出した独島が韓国領として鮮明に表示されている英国外務部作成地図もそこで出会った。彼の活躍がより一層期待される。
ハン・スンドン先任記者 sdhan@hani.co.kr
■著者とともに/チョン・ビョンジュン教授 インタビュー
“独島、疑問の余地のない韓国領土”
<独島 1947>を読んでみれば、“東北アジア地域秩序と韓-米-日関係に対する新しい視野を得ることができるだろう”とチョン・ビョンジュン教授は自信を語った。
機密解除文書を見てしまってから独島の勉強を始めたというチョン教授は、米国文書庫の原資料はそれ以前に多く見たソン・ナムホンの<解放3年史>や、キム・ナムシクの<南労働党研究資料集>、または、軍誌のような資料とは“質的に差がある”と言った。なぜ、わざわざ独島か? “ちょっと侮辱された気がした。独島問題ならば十分に重要視すべき国家的議題なのに、研究水準はほとんど驚くほどだった。韓国研究者らの中に1950年代初めのサンフランシスコ講和条約関連米国文書庫保管資料を探してみた人も殆どいなかった。”
2001年3月に初めて機密解除文書を見に米国に行き、10ヶ月ほど調べて帰ってきた。その後、計5回程度 訪ねて行き、1ヶ月程度ずつ留まり文書庫を検索した。“1950年代初期資料を検索していて何かちょっと変だという気がした。機密に分類され解除されないものもまだ多く、米国は日本に対してはとても好意的なのに韓国側には非友好的だった。なぜそうなのか? それが気になり2005年に再び米国に行った。”そのような形で米国文書庫に直接行き、本格的に原資料を捜し出す作業に拘ったのは、韓国人研究者としては自身がおそらく初めてだと言った。その前にシン・ボクリョン教授など米国機密文書研究1世代と言える先駆者たちがいたという事実を彼が忘れている訳ではない。
特に中国古代史専攻者で、1977年に米国に渡り、米国文書庫の機密解除資料から宝石を掘るように一つずつ特ダネを放ち、国内研究陣を“びっくりさせ衝撃に陥れた”在米同胞研究者パン・ソンジュ(77)氏を敬慕する心が格別だ。自身の研究成果が全て“パン・ソンジュ先生のおかげ”ということだ。“米国文書庫にいくら多くの資料が積まれていても、その構造と関連個人情報や組織情報を知ってこそ必要な資料を捜し出すことができる。それを知らなければ何年そこで閉じこもってみても何の成果も勝ち取ることはできない。パン先生は韓国人としては初めてそのような機密解除文書を収集し公開した方だ。今まで韓国で刊行された韓国現代史関連米国資料の80%以上がパン博士様の手を経たものだ。特に北韓 捕獲文書はほとんど100%がパン博士様の労苦のおかげだ。韓国現代史米国資料研究のガイドであり現役研究者だ。”独島問題を韓-日関係ではなく韓-米-日関係で把握したイ・ジョンウォン日本立教大教授の問題意識からも彼が得たことは多い。
1947年と49年に発表された米国地図、51年に出てきた英国地図、そして同じ年に出た日本外務省地図に、独島が韓国領として表記されていないものは一つもなかった。以前に韓国研究者が利用した米国機密解除資料中の多数は、日本研究者が日本に有利なものだけを選別しておいたものだということだ。その上、対日講和条約草案を米国は異例的に日本側に何回もあらかじめ見せ、コメントまでし、英国側もそのようにしてくれたが、韓国側はそれこそ冷や飯だった。その苦難の戦争時期に過去史認定も賠償も行うつもりがなかった日本が、独島を自分たちのものとするために、すばしこく対応したことに対し韓国の人々が感情的に対応したのは、もしかしたら当然のことではないかと言った。そして“独島が韓国領土という件は疑問の余地のない事実”と彼は話した。
文 ハン・スンドン先任記者、写真 キム・テヒョン記者 xogud555@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/435035.html 訳J.S