1400年前、百済最後の都が置かれた扶余(プヨ、忠清南道)の泗沘(サビ)城の王宮に笛を吹く楽士がいた。ある日、彼は普段大切にしていた竹の笛を折り、宮中の厠(かわや)の穴に投げ捨てて去った。扶余邑の官北里(クァンブクリ)の百済王宮跡と推定される遺跡の厠の穴の底から、胴の3分の2だけが残った状態で発見された百済の横笛遺物から想像される過去である。百済の楽師はなぜこのような奇妙な行動を取ったのだろうか。
国立文化遺産研究院 国立扶余文化遺産研究所(ファン・イノ所長)は5日午前、扶余邑の研究所で記者説明会を開催し、韓国最古の木管楽器の発見を中心とする扶余官北里遺跡第16次発掘調査(2024~2025年)の成果を発表した。注目の木管楽器は、横笛として演奏されていたと考えられる。当時の百済王室の朝堂(王と臣下が国政を議論し、朝会や儀礼を行う政治的・象徴的な空間)とみられる7世紀の建物跡近くの長方形の穴(横2メートル、縦1メートル、深さ2メートル)から出土した。残存部分の長さ22.4センチメートルに及ぶ本体は、竹の素材に加工した4つの穴を一列にあけたもので、元の本体の約30%が失われ折られた状態で発見された。X線分析の結果、息を吹き込む穴(吹口)がある胴の一端は蜜蝋などで塞がれている構造であり、演奏者が横に構え口で吹いて音を出す横笛であることは確実だ。
これは国宝の百済金銅大香炉の表面に刻まれた器楽演奏の姿にも登場する当時の百済の笛の実物が初めて確認された事例であり、三国時代(7世紀)を通じても唯一の実物管楽器の出土事例とされている。
研究所が中国や日本の事例と比較した結果、この横笛遺物は現在の小笒(ソグム)に似ているように見えるが、指の穴と唇を当てる穴の位置が異なるため、実際に音を出すことは難しいという。当日の説明会で再現品を演奏した扶余郡忠南国楽団のキム・ユンヒさんは、「ソグムの音より音程が半音階ほど高く、音域が狭いため演奏が難しかった」と話した。
横笛が見つかった穴は、内部の有機物を分析した結果、人間の寄生虫卵も同時に検出され、朝堂の厠(トイレ)であった可能性が高いという。研究所側は「百済の音楽と音を復元する決定的な手がかりを提供する遺物」とし、「泗沘百済王宮の中心的な空間で楽器が発見され、百済の宮廷音楽と楽器研究に重要な資料となるだろう」と期待している。
しかし、なぜ王宮で演奏された楽器が傷ついた状態で厠に廃棄されたのかは、今後解明すべき謎となるだろう。ファン・イノ所長は語った。「遺物を回収したときは人為的に楽器を折った跡が明らかで、厠の底から残りの30%の本体が出てくると思ったが、出てきませんでした。謎が深い遺物であるため、研究をさらに進め、なぜ宮中の楽器が王室内のトイレで半分折れた状態で発見されたのかについて、想像の物語も国民公募で募ってみようと思います」
研究所が過去2年間に実施した発掘調査では、サクソル(削屑、木簡に書かれた文字を削除・修正するために表面を削ってできた破片)を含む木簡329点も大量出土した。発掘された木簡は、韓国国内の単一遺跡で確認された最大の数であり、泗沘期の最も早い時期の資料と評価されている。泗沘遷都の初期段階の水路で集中的に出土しており、干支年が記された木簡から製作時期を具体的に知ることができる。『庚申年』は540年、『癸亥年』は543年にあたり、百済が公州(熊津)から扶余(泗沘)へ遷都した538年直後である。
この他にも、国家行政文書である人事記録の木簡、国家財政に関連する帳簿の木簡、官等・官職が記載された木簡や削屑が多数出土しており、出土した空間が百済の中央行政機関である22府使に関連していることを示している。木簡を簾のように紐で編み書類ファイルの役割を果たす編綴木簡も韓国国内で初めて確認された。特に、編綴された木簡の中に「功四為小将軍刀足二」という文が書かれた木簡は、「功績が4つの刀足二を小将軍にする」という意味の人事関連文書である点が注目される。
泗沘都城の中央行政区である5部や房・軍・城などの地方行政体制の再編過程を示す木簡もかなりの部分を占めている。都城の行政単位である「上・前・中・下・後部」の5部を記録した木簡と「熊津・河西郡」、「那羅・徼比城」など、これまで知られていなかった地名が付いた地方行政単位(郡、城)の表記木簡も確認され、当時の国家運営体制を生々しく示している。「立冬」、「人心草」、「玄曲カイ」(カイはりっしん偏に豈)、日本で作られた漢字とされる「畑」などが記された木簡も出土し、百済が先進文化を背景に東アジアで活発に対外交流を行っていたことが推測される。
官北里遺跡は扶蘇山の南側、広く平坦な大地に位置している。研究所は泗沘期王宮の実態を明らかにするため、1982年から発掘調査を行ってきた。その後の調査で、大規模な殿堂建築や水路、道路施設、広大な敷地などが確認され、学界では百済の泗沘城の王宮跡と推定されてきた。