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[マガジンesc] 樹齢600年 ケヤキは全てを知っている

原文入力:2010-06-02午後08:00:09(3774字)
escウォーキングマップ25.原州 江原監営と鳳山川
江原監営から出発し園洞聖堂を経て風物市場まで6km

イ・ビョンハク記者

←江原監営の樹齢600年になるケヤキ。巨大な松茸のような突出部が目を引く。

朝鮮初期(1395年)の行政区域改編の際、江原(江陵・原州)道を作り、原州に監営(道観察使が政務を執った官庁)を設置した。1895年まで500年間、512人もの観察使がこちらを通り過ぎた。監営から歩き始め反時計まわりに原州の旧都心をひと回り巡る。
江原監営後方の公営駐車場に車を停め、監営裏口に入る。先ず樹齢600年余りの風霜を経た巨大なケヤキ①が迎えてくれる。監営跡の象徴物だ。数多くの戦乱を経て焼けて崩れて再び新しく建てられた建物を見守るうちに、枝ごとにゴツゴツしたコブが多く見られる。昔、息子ができず恨が極に達した女たちがこの木の周りを回り、木の特定部位を眺め男子出生を祈りに祈ったという。2つに分かれた木幹の一方に大きく突出した部分が見るからに猛々しい。男性のそれにも似ている。

監営には元来40余軒の官衙建物があったが、今は2層楼門の布政門②と中三門・内三門、観察使の執務室であった宣化堂、内衙などが復元されている。解説士が常駐している。観察使善政碑群の前で、提川からきたという大学生2人が解説士の説明を聞いている。「えー、この善政碑はなぜ破損しているのでしょうか? 善政を施さなかった観察使が無理に碑を建てさせたが、彼が退任するやいなや住民たちがたたきこわしたのではないでしょうか?」

正門を出れば原一路(ウォンイルロ)だ。年配の方々はウォンイルロより‘A道路’と呼ぶことに慣れている。車が通らない‘文化の通り’中央路がB道路、鳳山川(原州川)側の平原路はC道路だ。解説士 チョン・ジェグ(71)氏は「元々は田畑であったが、6.25の後に鉄板を敷いて軍事作戦道路を作ったことから出きた名前」と説明した。

文人墨客がしばしば登ったと言う秋月台

←鳳山洞の幢竿支柱.

布政門を前に見て、原州文化院③側に歩く。南山の山裾だ。文化院前のミョンイルスーパーと七星殿の間の路地を登ればまもなく秋月台④に着く。雉岳山から上る月が美しく、文人墨客たちがしばしば訪れ酒を酌み交わしながら口ずさんだと言われる所だ。







←原州園洞聖堂。 70年代 反独裁民主化運動の聖地と呼ばれる。


‘配水池道’路地を下ってくれば園洞聖堂⑤が待っている。近代文化遺産に登録された建物だ。天主教原州教区の主教座であり、1970年代の反独裁民主化運動・人権運動の本山だ。原州教区長を務めた人権運動家 故チ・ハクスン主教の‘正しい社会に向かう熱望’が息づく所だ。聖堂は1954年に再建された石造建物だ。

原一路を歩き、南部総合市場(雉岳マンション)に出会う。70年代に建てられた7階建の商店・アパート複合建物だが、建築当時には原州で最も大きかったという。旧南門周辺だ。50年以上にわたり代を引き継ぎ犬肉スープを出していたチンジュ食堂を過ぎ南原路に出る。旧煉炭工場跡(花屋),旧マッチ工場跡(ヨンセ病院)を経て郷校⑥側に歩く。ヨンセ病院の場所が当初 郷校を作ろうとしていた場所だったという話がある。チョン・ジェグ氏が解説した。「病院の場所で大工たちが郷校建築に使う木材を整えていたが、ある日 積まれていたオガ屑・カンナ屑がきれいに消えていたそうだ。探してみると現在の郷校の場所にそれが積まれていたんだと。おがくずを掻き分けて鳳凰鳥が3羽が出てきて飛んで行ったそうだ。そうか、ここが郷校を作るべき場所なんだなというわけさ」

郷校の大成殿には国内18人と中国5人の位牌が祀られた。門が大きく開けられた明倫堂では主婦・年配の方々が<孟子> ‘告子編’の講義を熱心に聞いている。郷校周辺は韓国戦争当時、避難民収容所だった。郷校を出て洗車場前の美容室横の路地に入り、50年余り豆腐を作って売ってきたという家庭豆腐工場をすぎ南原路に出て道を渡る。

←原州郷校 明倫堂. <孟子>講義の真っ最中だ。

アパート新築工事現場の左側の坂道を越えると原一路だ。工事現場一帯の山の町の名前がクマンイだ。水が流れ凹んだ穴が掘られた地形を作ったので ついた名前だ。原一路の横の公園の仁烈王后出生地碑⑦を見る。仁烈王后は朝鮮仁祖の王妃(原州牧司ハン・ジュンキョムの娘)だ。本来、歩道 原州橋(双子橋)側に碑石と碑閣があったが、朝鮮戦争の時に全て失われ、こちらに建てなおされた。

アパート工事現場横の路地内には別名‘おばけ碑’と呼ばれる‘金候善政之碑’⑧がある。本来は路地の右側壁付近(旧クマンイ村の入口)にあったが、臨時に工事現場事務室横に移した。この碑石に話が伝わっている。クマンイに住んでいたチョン・ギウォンという人が兵士職位に上がる前に、木像のような‘金候’というおばけが現れ‘チョン兵士様、お茶はいかがですか’と言って兵士と呼んだが、後に彼が本当に兵士職位に上がったという。これにチョン・ギウォンがおばけ‘金候’を賛え善政碑を建てたという話だ。

40余年にわたりドジョウ鍋を商ってきた原州フグドジョウ鍋屋で昼食をとり、南部市場交差点を経て鳳山墓を眺め開峰橋を渡る。驪州商会のそばに鳳山洞幢竿支柱(高麗初期)⑨がある。自然石を基礎に使い支柱をたてた点が特異だ。支柱側は新しく作ってたてたものだが、残った片側も6.25の時に3つに折れて復元したもののだ。100年の歴史を誇る原州小学校側に歩く。原州小学校周辺は朝鮮末期の女性性理学者 任允摯堂(1721~1793)が嫁いできて暮らした所だ。 夫と早く死別した後、学問にまい進し多くの性理学論説と書評・人物評を残した方だ。

近代文化遺産に指定された34年産の銀行建物

各種漆工芸品と津液などを展示・販売する原州漆文化センター⑩を覗いて鳳山川双子橋(原州橋)⑪に行く。左側に歩道橋として使う小さな橋が日帝強制占領期間に架けたもので、右側に車両専用橋は6.25の後に架けられた橋だ。橋の周辺は船村と呼ばれるが、日帝強制占領期間には仁川から来た塩船が出入りしたという。橋のそばの川べり駐車場は農産物の朝市場だ。毎日午前4~8時に一時市場が開かれる。原州橋五叉路は監営に入る東門と仁烈王后出生地碑閣があった場所だ。

風物市場はちょうど市の日(2,7日)だった。市場の中の路地ごとに人波であふれていた。市場を抜けて平原路(C道路)を渡る。平原路はその昔、チンコルモクと呼ばれた。牛馬車に乗らなければ通ることができなかった泥沼道だった。‘文化の通り’中央路は若者たちが闊歩する広い歩行空間。こちらに日帝強制占領期 資本収奪の前哨基地だった朝鮮殖産銀行原州支店の建物(現 第一銀行)⑫がある。1934年に立てられた原州の初めての銀行建物(2階)で、近代文化遺産に指定された。

金剛製靴前で道の向かい側の監営そば郵便局⑬路地に入る。郵便局の場所には本来は池があった。中に築台を積み島を作るほどの広い四角形の池だった。1830年頃に出された<関東誌>に載せられた江原監営図を見れば四角形の池の中に2個の亭子が書かれている。蓬莱閣・観風閣・喚仙亭の3亭子が池の内外にあったという。原州市はまもなく郵便局を移し池と亭子らを復元する予定だ。

監営に戻り、樹齢600年のケヤキの木陰の椅子に座り思いをはせる。この巨木はかつて池のほとりに立っていた数十株の木の中の一本だったのだろう。小冊子‘原州の郷土遺跡’の表紙にのせられた白黒写真(1910年撮影 推定)に監営の宣化堂裏に池を囲んで茂っている森を見ることができる。6kmほどを歩いた。

←escウォーキングマップ. 原州、江原監営と鳳山川。地図グラフィック デザイン(※クリックすればさらに大きく見ることができます。)

ウォーキング メッセージ

モーテルに泊り桑の葉釜飯を食べようか

◎行き方|首都圏から嶺東高速道路に乗り萬鍾分岐点から中央高速道路に乗り換え南原州で降り、19号国道に沿って市内に入り、一山洞、江原監営に行く。 監営裏道に公営駐車場がある。1時間1100ウォン。監営入場料はない。

◎食べる所・泊まる所|原州フグドジョウ鍋屋 (033)762-7989,ポンスニパブ(桑の葉釜飯) (033)747-9666,チンジュ食堂(犬肉湯) (033)764-5498,チャンスカルグクス (033)746-9179.丹渓洞側にモーテルが多い。

◎旅行問い合わせ|原州市庁文化観光課(033)737-2832,原州文化院(033)764-3794,江原監営(033)737- 4767.

原州=文・写真 イ・ビョンハク記者 leebh99@hani.co.kr

記事全文は‘おいしい旅行’(foodntrip.hani.co.kr)

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/212/423770.html 訳J.S