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[マガジンesc]画家の木には橙色の柿が鈴なり

原文入力:2009-10-28午後09:15:31
escウォーキングマップ13.大邱 慶尚監営と城跡周辺路地
大邱 慶尚監営公園から香村洞をすぎ桂山洞聖堂まで3km

イ・ビョンハク記者

←escウォーキングマップ13.大邱慶尚監営と城跡周辺路地. 地図グラフィック デザイン(※クリックすればさらに大きく見ることができます。)

大邱市,中区の中央に旧大邱邑城の址がある。城郭跡は消えたが公園として作られた旧慶尚監営の址が残っている。朝鮮中期から嶺南地域の行政・文化の中心地であり、日帝強制占領期間以後は大邱最大の繁華街であり、文化・芸術の中心街として発展してきたところだ。慶尚監営公園を出発して時計方向に歩く。城郭周辺の過去と現在を掘り出してみる時間旅行だ。

国内初めての音楽鑑賞室 綠香が表札をかけた路地

慶尚監営公園の地下駐車場に車を停め観光案内所で地図と資料をもらう。下馬碑①から始める。‘節度使以下、皆馬からおりて歩きなさい’という標石(節度使以下皆下馬碑)だ。公園は遠くから近くから歩いてきた男女年配の方たちでいっぱいだ。運動したり休んだり会話して恋愛する空間だ。慶尚監営は1601年、安東から移ってきて以来、日帝が侵奪するまで300年余り存在した。英祖の時(1736年)周囲2.65kmに達する石城を積んだが1906年、当時観察使だった親日派パク・チュンヤンが日人商圏確保のために崩してしまった。監営公園の宣化堂②(観察使執務室)と澄淸閣③(観察使居所・以上は道有形文化財1,2号)は現在補修工事中だ。宣化堂の前庭には1770年に作った測雨器があったが、花崗岩の基礎部分(宝物842号)だけが残っている。公園の一方に集めた29ヶの善政碑の群れを見てまわり公園を出て文化遺産解説士キム・ジョンソク(66)氏が話した。「測雨器はなんでも英祖46年に作ったものだが親日派パク・チュンヤンが日本人の仁川気象観測所長にプレゼントするといって与えてしまったんだよ」

←大邱 慶尚監営公園の下馬碑.

公園を出て香村洞街を歩く。香村洞周辺は1920年代から光復(解放)前まで‘漢江南で最大の繁華街’だった。光復(解放)前まで5万人余りの日本人が居住し金融・商権を掌握していた。光復(解放)に続き、朝鮮戦争避難期を経る間こちらには多くの芸術家が訪ねてきて夜どおし酒を飲み絶叫し挫折と希望を歌った所だ。こういう雰囲気は70~80年代まで続き大邱の文化・芸術産室の役割を果たした。監営そばの四つ角の建物に国内初めての音楽鑑賞室‘緑香’跡④であることを知らせる小さな立て札が見える。1946年から60~70年代まで文化芸術家らのアジトの役割をした所だ。画家イ・ジュンソブ,詩人ユ・チファン,小説家チョン・ビソク,国文学者ヤン・ジュドンなど当代の知識人が行き来した。詩人ヤン・ミョンムンはこちらで有名な歌曲‘ミョンテ(鱈)’を書いた。朝鮮戦争当時ソウルから大邱に移ってきた音楽鑑賞室ルネサンス⑤もこの路地内にあった。

音楽にうるさい年配の方たちが出入りする‘ソンインテク(ナイトクラブ)’小路に出る。70~80年代まで「この路地に来るにはお金をちょっと持っていなければ」と考えた高級飲食店通りだった。インテリ 双寡婦がやっていた白鹿茶房⑥,第一毛織労働者出身のマダムが開いていた湖水茶房がこの路地にあった。イ・ジュンソブ・ペク・ギマンなどが来て閉じこもった白鹿茶房はイ・ジュンソブのタバコの銀紙に描いた牛の絵などが製作されたところでもある。大邱中心繁華街を象徴したこの路地は今は主導権を通りを一本越えた東城路側に譲り渡して古びている。

旧北側城郭跡の北城路に出る。この道は‘純宗皇帝御駕道’⑦とも呼ばれる。1909年日帝の勧誘で初めての地方巡行に出た純宗皇帝が釜山に行くときに伊藤博文,李完用などと共にこちらに立ち寄った。大邱駅から玉轎(王が乗る御輿(窯))に乗り宣化堂に行く時、この道を通った。当時の観察使パク・チュンヤンは道路わきの民家を壊し道を広げたという。以後、この道は日本人たちが密集して暮らすことになり日帝強制占領期間を通じ大邱の商業中心地に浮上した。当時商圏を主導した三中井百貨店の建物が90年代初めまであったが撤去された。
中央路の向かい側の東城路に入り込む。通りの雰囲気は前に見た香村洞側と明確に区分される。香村洞が‘中壮年の通り,クッパ店通り,昔の情緒だけが寂しく行き交う盛りの過ぎた通り’ならば、東城路側は青春の通り,ファーストフードの通り,最先端ファッションが乱舞する飛んでる通りだ。旧城郭の東門だった鎮東紋址を過ぎ地下道を渡り韓一劇場そばの路地に入ると群がる若い男女たちで足の踏み場もないほど混雑している。

地下鉄中央路駅で大通りを渡り、チンコルモク(長い路地)⑧に入る。雰囲気はまたがらっと変わる。食堂も劇場も中央路を境に栄え滅びゆく姿が明確だ。古い家並が並んでいるチンコルモクは例えばソウルの避馬コルのような裏路地だ。1907年路地内に住んでいた7人の夫人たちが金製品など装飾品を集めて献納し、女性国債報償運動(訳注:主権保護運動)を始めたところだ。かつて達城徐氏らが集まり住んだ富者町内だったという。大邱地域初の洋館(1930年代)というチョン小児科医院や引退した知識人たちが好んで訪ねるというミド茶房⑨を過ぎて、20年間ユッケジャンで名を上げたチンコルモク食堂の70年経つ韓国式家屋,テチョン食堂になった古い韓国式家屋(イ・ウォンマン コーロン創業者古宅)を覗いて60~70年代の華僑通りであった鍾路に出る。薬塵路地の南城路と出会う四つ角で旧南門である嶺南第一関標示石⑩が見られる。

漢方病院・薬材商が並ぶ南城路に沿って旧大邱第一教会側に歩く間、ほのかな漢方薬の香りが全身をいたわってくれる。薬塵路地は元来、旧大邱邑城客舎広場で開かれていた薬令市を移してきて形成された。350年の歴史を持つ。1658年に初めて開設され250年間、全国最大薬令市として名声を得た。1907年に城郭と客舎が取り壊され南城路が新しい薬塵通りに位置することになった。路地内の旧大邱第一教会⑪建物は1933年に華僑の建築業者が作ったもので登録文化財に指定された。1990年教会が東山地域に移った後、今は薬令展示館として使われている。展示館前の路地に入れば香ばしく温かい漢方薬の香りが一層深まる。ただ歩いているだけで“漢方薬の香りで初期風邪くらいは治ってしまう」という路地だ。製丸・製湯業者が集まったところだが、青島から八鳥嶺を越えこちらを経て聞慶・忠州に至る旧嶺南大路の一区間でもある。

←抵抗詩人 イ・サンファの古宅. 詩人はこちらで晩年(1939~1943)を送った。

この路地と桂山洞聖堂後の四つ角周辺は桑の木路地(ポンナムコルモク)と呼ばれる。壬辰倭乱の時、李如松(訳注:中国,明の武将)と共に援軍にきた明国将帥 杜思忠が帰化した後、こちらに定着し桑の木を植えて暮らしたことに由来する名前だ。私たちの近現代史の一断面をのぞくことができる路地でもある。民族詩人イ・サンファが暮らした古宅⑫と彼の兄の独立活動家(美術家)イ・サンジョンの古宅⑬,国債補償運動首唱者ソ・サンドンの古宅などがこの路地に集まっている。嶺南大の前身である青丘大学設立者チェ・チョンヘの古宅跡横の路地を出て、桂山五叉路の大通りにぶつかり、桂山洞聖堂正門の方へ歩く。聖堂壁道では1920年代の聖堂の姿をアートタイル壁画で飾る作業が真っ最中だ。桂山洞聖堂⑭建物は1902~1918年にかけて建てられた大邱地域初のゴシック様式建築(史跡290号)だ。故キム・スファン枢機卿が神父敍品を受けたところであり、朴正熙前大統領が陸英修女史と結婚式を挙げたところでもある。

←桂山洞聖堂(史跡290号). 故キム・スファン枢機卿がここで神父敍品を受けた。

中央路を境に興亡史が共存

聖堂そばの広場には‘イ・インソンの木’⑮がある。大邱出身の画家イ・インソンが1930年代に描いた‘桂山洞聖堂’の背景となった柿の木だ。聖堂尖塔と青い空を背景に100才にもなった‘イ・インソンの柿の木’はだいだい色の柿を鈴なりにさせ明るく立っている。ここまで3km,中区庁でまとめあげた路地探訪記の2つのコースの一部を続けて歩いた。

ウォーキング メッセージ

◎首都圏から京釜高速道に乗り北大邱出入り口から出る。西辺大橋を渡り大邱市内に行く。大邱駅から一区域距離に慶尚監営公園がある。公園に地下駐車場がある。10分500ウォン,4時間以上~当日駐車1万ウォン。大邱市,中区庁で開発した4ヶの文化遺跡探訪コースがある。団体で申請すれば文化遺産解説士の案内を受けることができる。中区庁(053)661-2191.

◎ヘジャングク専門チンコルモク食堂(053)253-3757,大邱タログクパプ元祖クギルタログクパプ(053)253-7623,東仁洞カルビチム路地に立ち寄り辛い煮カルビを味わったり、慶北大後門や西部停留場そばなどのマクチャンゴルモクに立ち寄って牛マクチャングイも楽しむに値する。慶尚監営公園(大邱広域市,中区,布政洞21)観光案内所(053)254-9404.大邱市で運営する定期コース,循環コース,テーマツアーなど大邱市主要見どころ・体験種を訪ねて行くシティツアーバスもある。 1人5000ウォン. 大邱観光情報センター(053)627-8900.

大邱/文・写真イ・ビョンハク記者leebh99@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/212/384593.html 訳J.S