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[書評]韓国エリートの根元、帝国大学留学生たちの肖像

登録:2019-06-30 00:10 修正:2019-06-30 15:45

日本の帝国大学に留学した朝鮮人を追跡
帝国大学が韓国に及ぼした影響分析
支配エリートの再生産制度としても機能
「実証的な実体復元・価値評価が必要」

『帝国大学のチョーセンジン-大韓民国エリートの起源 彼らは帰ってきて何をしたか?』チョン・ジョンヒョン著/ヒューマニスト・2万ウォン//ハンギョレ新聞社

 京畿高とソウル大法学部を出て、最高裁判事、監査院長、首相を歴任した李會昌(イ・フェチャン)氏(84)は、1997年の大統領選挙と2002年の大統領選挙でハンナラ党候補として出馬し敗北した。チョン・ジョンヒョン仁荷大韓国文学科副教授は「私には、1997年と2002年の二回にかけた大統領選挙の結果がおよそ一世紀にわたり強固に続いた貴族的既得権に対する韓国社会の無意識的な拒否と思われる」と話す。なぜそうした評価をするのか見てみよう。

 李會昌の祖父は、忠清南道礼山(イェサン)の地主であり、伯父のイ・テギュは京都帝国大学の教授を務めたし、父親のイ・ホンギュは朝鮮総督府検事書記を経て解放後に検事になった。母方の叔父のキム・ソンヨンは、東京帝国大学法学部を卒業し、高等文官試験に合格し日本の軍需省の官僚を務め、叔母のキム・サムスンは北海道帝国大学を出た。李會昌の義父のハン・ソンスは、1942年に高等文官試験に合格し、解放後に大法院長(最高裁長官に相当)職務代行および大法院判事を務めた。本家・実家・妻家がそろって華麗な背景を持っている李會昌にとって“貴族”イメージは自然に見える。李會昌は「帝国大学と植民地官僚という社会資本が解放以後に韓国社会でどのような役割をしたかを見せる劇的事例」だ。彼の家系図には“帝国大学”が鮮明に刻まれている。

東京帝国大学の図書館で勉強する学生たち。帝国大学の中でも東京帝国大学法学部(法律学・政治学など)の威勢は圧倒的だった。朝鮮の若者たちは、植民地青年が受ける差別を一挙に克服しようという熱望から帝国大学の門を叩いた=ヒューマニスト提供//ハンギョレ新聞社

 『帝国大学のチョーセンジン』は、“近代日本のエリート養成装置”だった日本本土の帝国大学に留学した朝鮮人を追跡した本だ。留学した彼らは、誰で、なぜ行ったのか、そして帝国大学で何を学び帰ってきてどんな影響を及ぼしたかを調べる。国文学者のチョン・ジョンヒョン教授は、2010年に京都大で初めて朝鮮人留学生名簿を見たという。海外出張中のチョン教授は、ハンギョレとの電子メール・インタビューで「これらの留学生集団に対する研究が殆どなかったため、当時驚いてこの研究をしなければならないと決心した」と明らかにした。東京・京都の帝国大学留学生を全数調査し、残りは2次資料を土台にした。本は“親日エリート養成所”であり“朝鮮独立運動の水源地”でもあった帝国大学留学生の話を興味深く繰りひろげる。

台湾に設立された台北帝国大学の授業風景=ヒューマニスト提供//ハンギョレ新聞社

 帝国大学は、日本本土に7カ所(東京・京都・東北・九州・北海道・大阪・名古屋)、朝鮮(京城)と台湾(台北)に一カ所ずつ計9校が設立された。伊藤博文の構想によるものだった。教授は、高級官僚として身分が保障され、“学士”という言葉も帝国大学の卒業生だけが使えた。日本のノーベル賞受賞者がほとんど、帝国大学またはこれを継承した国立大学の出身という事実は、帝国大学の学問水準を知らしめる。

 日本本土の帝国大学を卒業した朝鮮人は概略784人、学業を中途であきらめた者まで加えれば1000人を超えると予測される。これは京城帝国大学出身者より多い。日本の教育と設備水準が高かったことと共に、植民地の青年が受けた差別を一挙に克服しようという熱望が留学を刺激した。日本の帝国大学出身は、京城帝国大学出身以上のもてなしを受けた。卒業証書は出世を保証した。

1916年、東京の朝鮮人留学生の集い後に撮った団体写真。太極模様の旗を掲げている少年が、その後に京城紡織の社長を務めたキム・ヨンスだ=ヒューマニスト提供//ハンギョレ新聞社

 京城紡織の社長を務めたキム・ヨンス(1896~1979)は、<東亜日報>を創刊したキム・ソンス(1891~1955)の弟であり、朝鮮を代表する事業家だった。李一家の事業が繁盛すると、1932年に記者たちは“財閥”と呼び始めた。キム・ヨンスは、京都帝国大学経済学部を卒業した。「事業において“帝国大学ネットワーク”と同窓意識は大きな資産として作用した」。日本敗戦の直後、満州から帰ってくる時に南蛮紡績の物品を一部手に入れられたのも、大学の後輩の日本人鉄道局長が貨車十両を配分したおかげだった。彼の次男のキム・サンヨプは、東京帝国大学法学部を出て、全斗煥政権の時に首相を務めた。「帝国大学は、韓国社会の支配エリートを再生産する制度としても機能した」

 国を売った“貴族”と朝鮮王朝の名望家、地主と植民地ブルジョアの後えいたちが留学した。しかし、そういう彼らよりも、かろうじて留学生活をした苦学生たちが多かった。朝鮮総督府と満州国が支援した“官費留学生”もいた。帝国大学は、永きにわたり“女人禁制の領域”だった。李會昌の叔母のキム・サムスン(1909~2001)は、韓国キノコ産業の基礎を築いた人物だ。「科学者を夢見る韓国社会の息子や娘が、キュリー夫人程度に記憶しなければならない女性科学者、“その名はキム・サムスン”だ」

 帝国大学を卒業した朝鮮人は、ほとんどが官僚や教員として就職した。植民地では“結構な働き口”が不足していたためだ。高等文官試験を経て郡守や判検事になった。「帝国大学を出た優秀な頭脳と有能さは、行政の対象となった朝鮮民衆には大きな害悪だった」。司法科の合格者は総督府の徹底した身元照会を通過しなければならなかったために「総督府判検事経歴は、すなわち総督府が保証した親日派の証明書」であった。ただし例外的な人間もいた。

 映画『東柱』(邦題:空と風と星の詩人~尹東柱の生涯~)に出てくるソン・モンギュ(1917~1945)は「故郷のまっ暗な夜を明かそうとしたが死んで星になった青年」だった。京都帝国大学に通った彼は「在京都朝鮮人学生民族主義グループ事件」で、尹東柱(ユン・ドンジュ)とともに逮捕され監獄生活をして亡くなった。マルクス主義の影響を受けた留学生たちは、朝鮮に帰ってきて共産主義活動をした。マルクス主義者から親日派、ポルノ映画ブローカーに“堕落”した留学生もいる。

京都で会ったウ・ジャンチュン、イ・テギュ、リ・スンギ。明成王后事件に関わったウ・ボムソンの息子ウ・ジャンチュンは、大根・白菜の改良で韓国農業を発展させ、李會昌の伯父イ・テギュと北に行き“ビナロン”を開発したリ・スンギは、解放後に南北を代表する科学者になった//ハンギョレ新聞社

 帝国大学出身は解放後にも大きな影響を及ぼした。ミン・クァンシク(1918~2006)の事例が目を引く。京都帝国大学出身の彼は、大韓体育会長も務めたが、1966年には泰陵(テルン)選手村を作った。「国家エリートの育成装置である帝国大学と、国家代表を入村させ集中育成する泰陵選手村の体育エリート育成システムは、その世界観と実際の作動方式が似ている」。彼がした最大の仕事は“高校平準化”だ。文教部長官として在任した1974年、朴正煕(パク・チョンヒ)の指示を受け高校平準化を検討する際、その解決策を日本で見つけた。文教部の職員を派遣し、高校配分入学制度の実状を調査させ、日本の政策を韓国に合わせて変形し施行したのが高校平準化だった。「帝国大学留学生ミン・クァンシクにとって、日本は緊急時に参照でき、参照しなければならない常に先んじる近代(性)の表象だったわけだ」

 帝国大学が韓国社会に及ぼした影響のうち、“最も重要で決定的な分野”は教育と学術だ。「今日大学教育を受けた人々を教えた教授の学問派閥を遡っていけば、帝国大学出身らと出会う確率が高い」。金日成総合大学の設立を主導した人々も帝国大学の出身だった。

 著者は、帝国大学という“知識制度”と関連した近代の経験を、まるごと“悪”と規定して、それをえぐり取らなければならないという考えは幻想だと指摘する。チョン教授は、電子メール・インタビューで「民族/反民族の道徳的定規を通じて、全否定してしまうならば韓国社会の重要なある起源に対する議論を自ら放棄することになる」として「真の意味で植民地の否定的遺産を清算するためにも、韓国の近代に重要な役割を果したこの集団の実体を実証的に復元し、それに対する価値論的評価を遂行しなければならない」と明らかにした。

ファン・サンチョル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/899679.html韓国語原文入力:2019-06-28 06:01
訳J.S