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老論-植民史観 事大主義と連結された人脈

原文入力:2009-07-08午後03:04:24
[イドクである主流歴史学界を撃つ]⑨老論史観に歪んだ朝鮮後期史

←京畿道坡州市法院邑の紫雲書院. 栗谷李珥を祀る書院として弟子の金長生も祀られている。金長生は栗谷の十万養兵説を創作し事実であるかのように伝播した(左側)。柳壽垣が書いた社会改革書である<迂書>。柳壽垣は老論により死刑となった少論強硬派であるが、国史教科書は老論だという風に叙述してきた(右側)。

韓国主流史学界の古代史認識が日本植民史観に深く傾倒しているならば、朝鮮後期史認識は老論史観に深く傾倒している。身体は21世紀に生きているものの歴史観は日帝と朝鮮末期老論に置いているという意味だ。老論史観と植民史観は自己のアイデンティティ否認と事大主義極大化という点で認識が同じであるばかりでなく、人脈でも互いに連結している。老論の根は仁祖反正を主導した西人だ。

日帝加担 老論出身 一部学者たち
朝鮮史編集会を経て史学界主流に
‘商工業中心改革論=老論’わい曲など
操作された国史教科書を正す必要

西人は国王追放の名分が必要だとして光海君の中立外交が真の王である明国皇帝を裏切ったものだと主張した。自分たちのクーデターが明皇帝に対する忠誠だという論理だった。西人らは仁祖反正の時に体制内野党として引き込んだ南人らに意外にも2次礼訟論争で政権を譲り渡さなければならなかった。粛宗6年(1680)の庚申換局で再執権に成功した西人らは南人らを謀反に追い立て皆殺しにした。罪なき南人らを謀反に仕立てて殺した政治工作に反発した西人少壮派が少論となり党のための行為だと擁護した西人老莊派が老論になる。老論は景宗の時に少論に一時政権を奪われたことを除いては、朝鮮滅亡の時まで政権を掌握した。朝鮮末、老論一部勢力は外勢に対抗し性理学社会を守護しようという衛正斥邪運動に加担したが、他の一部は日帝に協力し亡国に加担した。こういう老論出身一部学者らが日帝時に朝鮮史編集会を経て、解放後にも韓国史学界主流になったことにより国民は多くの誤った歴史認識を持つようになった。

老論の根元 李珥‘十万養兵説’は虚構

いくつか例を挙げてみる。現在、国民的常識の一つが栗谷李珥の十万養兵説だ。一時、国史教科書に載っていたし、現在も一部の道徳教科書に載っている。これは国史学界の泰斗というイ・ビョンド博士が1948年に発刊した<朝鮮史大観>に載せ、その弟子らが国史教科書に記載することによって国民的常識となった内容だ。その要諦は‘壬辰倭乱前に李珥が十万養兵説を主に主張したが、先祖は答えず柳成龍までが反対したために実現されえなかった’ということだ。イ・ビョンドは<朝鮮史大観>で「養兵十万論の年月は未詳だが、彼の門人である金長生所撰の栗谷行状の中に記されているとし、たとえ彼の晩年のことだとしても壬辰倭乱前10年に該当する」と叙述した。‘年月が未詳だが’どうして‘壬辰倭乱前10年’と特定できたのだろうか? 十万養兵説は光海君の時に編纂された<宣祖実録>には一言半句もない。仁祖反正後の孝宗8年(1657)に西人らが作成した<宣祖修正実録> 15年9月1日付に士官の論評で「李珥がかつて經筵で」これを主張したと叙述しているが、これは李珥の弟子の金長生(1548~1631)の行状を見て書いたのだ。十万養兵説は当初年月未詳だったが金長生の弟子宋時烈(1607~1689)が‘栗谷年譜’で‘宣祖16年(1583) 4月’、すなわち壬辰倭乱発生10年前のことだと正確に特定した。後代にますます日がさらに正確になる異常現象が発生したのだ。宋時烈はこの文で実際に壬辰倭乱が起きるとすぐに「柳成龍が‘李文成(李珥)は真に真聖人也’と嘆いた」と付け加えた。しかし李珥が‘文成’というのは諡号を受けた仁祖2年(1624)は柳成龍が死亡(1607)してすでに17年後であった。死後17年後にできた文成という諡号を柳成龍が書いたという記録自体が操作だという証拠だ。壬辰倭乱10年前の宣祖16年4月李珥は兵曹判書であった。李珥は宣祖16年2月「養民をせず養兵をしたということは古来より今まで聞いたことがありません」と国民が軍役と公納を避けて逃げる状況を憂慮し、国民の生活を安定させなければなければならないと主張した。彼は重い軍役と軽い軍役を引き受けた者を互いに交代させ、逃亡を防止しなければなければならないと主張した。国民が軍役を避け逃げる状況で、十万養兵説を主に主張することはできなかった。十万養兵説の最も大きな問題は柳成龍の反対で失敗に終わったように記録したところにある。西人領袖である李珥の先見知明を南人領袖である柳成龍が反対したことにより戦乱がもたらされたと主張するための操作だった。潛谷 金堉が書いた‘李舜臣神道碑’には李珥と柳成龍が李舜臣を登用するために互いに協力する内容が出てくる。李珥と柳成龍は党派を超越し国事に協力できる間柄だったが、党心にまみれた李珥の弟子らが十万養兵説を創造しその霧散疑惑を柳成龍に覆いかぶせ両者を仲違いさせたのだ。金長生はまた‘鄭澈行録’で鄭汝立の獄死の時‘柳成龍が委官(捜査責任者)を引き受け李潑の老母と子供を殺した’と記録し‘鄭澈が柳成龍になぜ老母と子供まで殺したか’と問い詰めたとまで書いた。李潑の老母と息子が刑罰を受けた日は宣祖23年(1590) 5月13日だが、柳成龍はその年の4月から休暇を得て安東に下り5月20日には貞敬夫人李氏を軍威に埋葬し、5月29日に右議政に降格され6月にソウルに上京し辞職上訴を上げた。李潑の老母と息子が死んだ時、柳成龍はソウルにいもしなかった。鄭汝立の獄死の時、委官を引き受けた人物は柳成龍ではなく鄭澈だった。北人らが編纂した<宣祖実録>は鄭汝立の獄死自体を西人鄭澈などが東人らを除去するために計画したように記述している。実際そうしたかはさらに研究しなければならない主題だが、鄭澈が鄭汝立の獄死の時に委官を引き受け数多くの東人らを殺したことは事実だ。金長生は鄭汝立事件で李潑の老母と幼い息子まで死んだことに対し、非難世論を柳成龍に転嫁するために事実をねつ造したのだ。

現行高等学校国史教科書は“孝宗は清に反対する立場を強く前に出した宋時烈,宋浚吉,李浣などを高く登用し軍隊を養成し城郭を修理するなど北伐を準備した」(103ページ)と叙述している。筆者の<宋時烈と彼らの国>(2000年)等の著書はさておいても、宋時烈が孝宗の政敵であったことを立証する史料はあまりにも多い。孝宗8年(1657)奏上した<封事>で「殿下が在位していらっしゃった8年間、歳月だけが過ぎ去り一尺一寸の実効もありませんでした…. 滅亡の危機が朝に夕に襲いました。」と孝宗の治世を全面否認した人物が宋時烈だった。宋時烈・宋浚吉はことごとに孝宗の足首を掴んだ孝宗の政敵であったにも関わらず国史教科書は孝宗の忠臣だったかのように記述しているのだ。宋時烈が顯宗 末~粛宗初めの2次礼訟論争で失脚するや四方から宋時烈が孝宗の逆賊という上訴が激しかった。ついに宋時烈を死刑に処さなければならないという主張まで横行するや礼訟論争の時に彼と対抗した判府事 許穆は ‘罪人に刑を加えることに反対する箚子(上奏文)’(請勿罪人加律箚)を上げ宋時烈の死刑に反対した。しかし許穆はこの箚子で宋時烈を中宗の時に死刑になった権臣 金安老と比較し「孝宗を当然に立つことのできない王と見なし至尊をけなし先王を誹謗した」として、当然死ななければならない罪が三つにもなると主張した。ただし、後から刑量を加重し死刑にすることには反対するという意味だった。

←タプゴル(パゴダ)公園全景。朝鮮末期、この一帯には白塔派と呼ばれた朴趾源,李德懋などの知識人らが暮らしていたが、現実から疎外されたこれらは執権老論とは異なる世界観の中で商工業中心の改革論を作った。

孝宗の‘政敵’ 宋時烈 忠臣に変貌

国史教科書はまた朝鮮末期 ‘商工業中心の改革論’ 首唱者らに対して「ソウルの老論家出身が大部分だった」として「商工業中心改革論の先駆者は18世紀前半の柳壽垣だった」と叙述した。この記述によれば柳壽垣は老論出身ということになるが柳壽垣は老論どころか英祖31年(1755)の羅州壁書事件の時、老論によって死刑になった少論強硬派であった。老論によって陵遲處斬(大逆罪に対する最高極刑)に処せられ一家皆殺しされた人物を老論に変身させることができるのが国史教科書の叙述構造だ。南人らが ‘農業中心の改革論’ を主に主張したのに対抗し ‘商工業中心改革論’ は老論が主に主張したことに変身させようとした老論後えい学者らの操作だった。清国に見習おうという商工業中心の改革論は清国を蛮夷と見なす老論からは出てくることが不可能な思想だった。その首唱者である洪大容・朴趾源は現実から疎外された両班士大夫であり、朴齊家・李德懋・柳得恭などは全て庶子だった。‘商工業中心の改革論=老論’という叙述に対する指摘が相次いだからか2007年度国史教科書からは ‘老論’ という単語を削除した。それと共に ‘農業中心の改革論’を南人らが主に主張したという事実も除いてしまった。「18世紀前半に農業中心の改革論を提示した実学者らは大部分ソウル付近の京畿地方で活躍した南人出身だった」(2003年)という内容を「18世紀前半に農業中心の改革論を提示した実学者らは農村社会の安定のために農民の立場で土地制度をはじめとする各種制度の改革を追求した」(2007)という文章に変えたのだ。商工業中心の改革論を老論が主導したという偽りの叙述が問題になるや、農業中心の改革論を南人らが提起したという‘正しい事実’まで抜いてしまったのだ。南人らだけが実学を主に主張したと書くことはできないという意志の表現と読まれる。このような形で教科書を叙述したので国史教科書が流れを理解できないつぎはぎ彫刻になってしまうのだ。他者に対する開放性と多様な価値観を形成しなければならない未来の主役たちがいつまで事大主義と閉鎖的画一主義の中で過去退行を指向した老論の価値観を学習しなければならないのだろうか? いつまで国史教科書の一部が日帝殖民史学と老論党論教材の性格を帯びているのを放置しなければならないのだろうか? 国史教科書叙述体制に対する全社会的な議論の枠組みが必要な時点だ。

ハンガラム歴史文化研究所長

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/215/364624.html 訳J.S