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女性の権利のため闘った女性政治家・朴順川のリーダーシップに学ぶ

登録:2015-11-12 03:01 修正:2015-11-12 05:21
『朴順川研究』出版したチェ・ジョンスン教授
チェ・ジョンスン又石大学客員教授=イ・ジョングン記者//ハンギョレ新聞社

 チェ・ジョンスン又石大学客員教授は、出版社に勤めていた2003年、国民大学政治学科大学院の夜間課程に入学した。韓国野党史の大物女性政治家、朴順川(パク・スンチョン)に関する研究論文で、2008年に博士号を取得した。この論文を補完して、最近『朴順川研究』(白山書堂)を出版した。彼女は研究の道に入ることを決意した時のことを、このように振り返った。「死にそうでした。残りの人生に何か一つはやり遂げたいと思いました。生き残るために、痛みを忘れてしまうために...、それが研究の道でした」。その時どんな事情があったのか。今月7日、全羅北道扶安(プアン)で会長を務めている梨花民主同友会の仕事で上京した彼女とハンギョレ新聞社で会った。

1978年と80年に投獄...梨花女子大学学生運動の“伝説” 
83年、“民青連の理論家”イ・ウルホ氏と結婚 
「拷問による精神錯乱」で夫25年間苦しむ 

「ウンジン」など出版界で30年間勤務、「初の女性役員」 
2003年夜間大学院へ...政治学博士に 
「女性、献身、統合、『朴順川の価値』求められる」

 鎮海(チンへ)女子高時代から彼女の夢は政治家だった。先生たちは彼女にいつも「朴順川のような政治家になれ」と言った。1975年、梨花女子大学社会学科に入学した。大学は社会正義とはかけ離れていた。黙っているわけにはいかなかった。1978年、梨花女子大学大講堂で開かれたチャペルの時間だった。彼女は4千人の学友が見守る中、講壇に上がって「8千梨花人よ」という檄文を読み上げた。維新憲法の撤廃を叫んだ。拘束されて11カ月間閉じ込められた。 1980年5・18光州抗争の時には、復学生の身分で後輩たちを導いた。全斗煥(チョン・ドゥファン)退陣を叫び、梨花大学食堂で徹夜の座り込みをする時だった。彼女が歌った「馬鹿アダダ」が座り込みをしていた4千人の学友たちの前で鳴り響いた。再び拘束され、1年2カ月間服役した。

 彼女は1983年8月15日の京畿道加平(カピョン)のトンマクというところで運命のように、夫に出会った。その年の9月に結成された民主化運動青年連合(民青連)の準備会だった。ソウル大学哲学科出身の夫、イ氏は民青連の理論担当だった。軍事政権に対抗して勝てる科学的運動の方法論を提示することが彼の役割だった。民青連を合法(オープン)と非合法(アンダー)組織に2元化する構想を立てた。 「その時、夫の優れた説明に感服しました」。そう“民青連1号夫婦”になった。

 1985年9月2日、夫は民青連の議長キム・グンテ氏より2日前に逮捕された。第一子が食い染めを迎えた頃のことだった。第二子は、お腹の中にいた。「キム・グンテを殺す根拠」を見つけるための拷問が、彼の肉体と精神を破壊した。学生運動界で有名な“秀才”だったイ氏は、結局南営洞(ナムヨンドン/旧安全企画部の取調室があった場所)で精神錯乱の症状を示す。チェ教授は1986年4月、臨月の体でキム・スファン枢機卿の部屋を訪れた。手には白い垂れ幕が握られていた。「『夫が釈放されなかったら、ここで死ぬつもりだ』と言いましたよ。『父親のいない子供を産むわけにはいかない』と、ソファを占領しました。6時間後、枢機卿がどこかに電話をかけて叱り飛ばしていました。解放されるという枢機卿の言葉を信じて座り込みを解除しました」

 結局第2子が生まれた日、夫の顔を見ることができた。 「(夫は)ところで、子供を見ても喜ぶことを知らね。」彼女はその時から、夫の拷問による後遺症と立ち向かわなければならなかった。厳しい戦いだった。 「夫は、2011年までに25年間1年に3カ月程度は精神異常の症状で入院を余儀なくされました。『生き残って証言しなければならない』という思いが苦しみを耐え抜くエネルギーだったようです」

 しかし、今まで家の外で見守ってきた人たちは、彼女を有能なキャリアウーマンとして憶えている。1983年、詩人ハ・ジョンオの紹介でユン・グビョン氏が編集週主幹だったウンジン出版に入社した。国内中堅以上の企業では、オーナー家を除けば、初の女性役員となる栄誉に恵まれた。ハンソル教育常務にスカウトされ、2年6カ月間働いて再びウンジンに戻って2012年に退職した。最終職位は専務だった。

 退職後、彼女は「人生を変えてみよう」という思いで、夫の故郷である全羅北道扶安(プアン)に帰農した。 「故郷に来てからは、夫は入院をしていません。今は精神的に安定しています。奇跡のようなことです。夫は周易や聖書など、根本となる勉強をしています」

 チェ氏は「朴順川の人生が私と似たところが多いですね」と言った。朴順川(1898〜1983)とは誰なのか?政府樹立以降、7代国会まで合わせて5回、国会議員に選ばれた。女性政治家としての独歩的な成功だ。 1965年の統合野党民衆党の党首をはじめ、野党総裁を2回も務めた。李承晩(イ・スンマン)の不正腐敗と独裁に強く抵抗し、姦通罪における男女双罰適用、生理休暇の導入など、女性の権利を確保するためにリーダーシップを発揮した。

 「今なぜ朴順川を記憶しなければならないのか」を尋ねた。「彼女は行動様式で民主主義者でしたね。ボトムアップ式の公認、透明な政治資金を主張しました。李承晩とは親しかったが、彼の独裁には抗議して戦っていました。権謀術数のような政治の悪魔性に抵抗しました」。彼女は朴順川が非常に現実的かつ簡単な言葉で大衆にアピールしたと話した。「演説がとても上手で、いつもトリを務めました。朴順川の演説が終わると聴衆が帰ってしまいますからね」

 政治家として朴順川の成功要因は何だろうか。「3・1運動に参加して1年6カ月間服役しました。それが政治的な資産でした。統一や独立への熱望が非常に強かった。女性の組織基盤にも役立ちました」。彼女は朴順川が大統領出馬に消極的だったことをとても残念に思っている。「第二共和国(李承晩政権の崩壊後、朴正煕による軍事政権が発足するまでの体制)の時、朴順川は実勢でした。民政へ移譲の際、ユン・ボソンの代わりに出馬したなら、民主主義の価値がより進展したのではないかと思います」

 今の韓国の女性政治は? 「女性議員10%は取りそろえる程度に過ぎない。30%は超えなければならないですよ。そうでないと、パラダイムが変わりません。朴順川のように民主主義の価値を持った最高指導者も多く出て来なければなりません」。韓国も女性大統領、女性首相を輩出したではないか? 「大統領が女性であれば、長官の半分は女性でなければなりません。そうでないと、女性による政治がしっかり行われることができません。現在の政府に女性長官が何人いますか?」

 初の女性大統領に対する評価は? 「朴順川が持っていた女性主義や民主主義の価値、献身性とそして功績まで、何一つも今の朴槿恵大統領からは見当たりません」。朴順川は政界を引退してから、維新時代「陸英修(朴正煕元大統領夫人)女史追悼事業会」理事長を務め、話題になった。「当時朴順川の行動に対して、維新反対者たちは絶望しましたよ。彼女が忘れられたのも、そのためだと思います。女性活動家たちも朴順川を研究しませんでしたからね」

 政界への入門を勧められたこともあったという彼女に、この時代における女性のリーダーシップについて尋ねた。「韓国社会の南南または南北対立は、対決構図では解決できません。相互尊重、相互依存が必要です」。統合が求められる時代に女性のリーダーシップがさらに光を放つことができるということだ。

カン・ソンマン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-11-11 21:09

https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/717048.html 訳H.J