本文に移動
全体  > 文化

[マガジンesc]水岩谷がぱっと咲きました

原文入力:2009-06-03午後09:10:55
escウォーキングマップ7.清州 水岩谷と中央公園
忠北,清州市庁そばから水岩谷を経て中央公園まで4km

イ・ビョンハク記者

80年代民主化運動の聖地 壽洞聖堂

中部内陸の孤島、忠北,清州。 馬韓の時代から領土争いの絶えない激戦地であり、中世印刷文化の揺籃だ。歩くには遠い距離の上当山城と古印刷博物館,都心を貫く無心川をさておいて路地に入る。古くてすりへった路地と生き生きした遺跡が旅人の足を引き寄せる。清州市庁付近,上当路の忠北農協本部①から始める。
金曜日は農協裏庭で農産物市場が開かれる。毎週金曜日朝7時から昼頃まで ‘瞬間的に市場’ が用意される。清州周辺の農家のおばあさん・おじいさんたちが育てて取ったものなどを担いできて屋台を広げる姿が懐かしい。パンア橋四つ角から大成女商側に歩く。無心川に流れ込む小さな小川に蓋をした道路だ。四つ角付近に小川にかかったパンア橋があり、橋のそばには水車があったという。右側の路地の3ブロック向こう側には1980年代の清州民主化運動の聖地と言える壽洞聖堂②がある。

←清州,民芸総の作業で水岩谷が絵のような町内に変貌した。民芸総は毎年、住民・市民が共に参加する公演・展示・体験行事を水岩谷で開き共同体文化の新しい形式を実験している。

 

ヨンアムスーパーを背に右側の路地を上がれば、まもなく表忠祠③正門が現れる。朝鮮時代の党派争いの弊害の一こまを見せる霊廟だ。英祖4年(1728年)、英祖と執権老論勢力に反旗を翻した戊申乱(李麟佐の乱;両班・軍人・商人・農民が参加した蜂起)時、反乱軍に抵抗し犠牲になった忠清,兵馬節度使 李鳳祥など3人の位牌を祀る。表忠祠の石垣を背に上ぼれば斜面側にタルトンネ(月の村,貧民街)路地が広がる。牛岩山麓の水岩谷(スアムゴル)④だ。50~70年代の路地風景をそっくり大事に保管しているところだ。

村にただ一つの店、サムチュン商会⑤が路地探訪の出発点だ。36年間、店の主人であり ‘街路樹整備’ の専門家であり水岩谷老人会長でもあるパク・マニョン(73)氏が話した。“現在ここにいる住民さ、70余戸に153世帯しかいないんさ、年老いた夫婦ばかりださ。”

30分ほど路地を歩き回れば町内の絵が描ける。閉まっているように開いている錆ついた鉄の門、倒れるそうにもたれかかった壁とそこの玄関の扉に書かれた‘勤勉・自重・協同’の標語が昔の風景画の中に誘う。急斜面にびっしりとハンカチほどの屋根をかけた古い家々が並び建ち、その間を辛うじて通っている路地がどこかに消える。道ははどうにかして互いに出会う。道に迷う心配はない。

光復の後、中国・日本から戻った同胞たちが居を定めたところだったが、韓国戦争の時に群がり集まった避難民たちを牛岩山裾野に移住させ山の部落が形成された。水岩谷に住んで40年になるというチェ・インドク(75)氏は「昔は便所のない家が多くて、鼻くそみたいな簡易共同便所を菜園のそばに作っておいて使ったもんだ」と話した。

←水岩谷の路地の隅に置かれた小便壺.

“古くて汚くてリヤカーもやっと上がってきた” 路地は昨年明るく生まれ変わった。清州の芸術家たちの愛情と手並みのおかげだ。清州民芸総が水岩谷環境美化に立ち上がった。群らがり集まり筆を執り、ひび割れた壁や門、電信柱にごみ箱、捨てられた植木鉢にも勢いよく絵を描いて彩ったという。あっという間に町内全体が生きている作品に生まれ変わった。

水岩谷は去年の春、TVドラマ ‘カインとアベル’ を通じて知られ訪問客が増えている。民芸総は去る5月にも水岩谷で ‘路地広場を抱く’というテーマで各種公演・展示・体験行事を行った。路地には5年前に民家を改造して作った落ち着いた小さな庵の恵園精舎⑥(住職 ジョンウン僧侶)がある。小用が急だったり喉の渇いた探訪客らに庵を開放している。

 

←3.1公園 牛岩山 散策路入口.

村をもうひと回り巡って降りてきて、消防道路に沿って上がる。駐車場横の木階段を昇り狭い道を歩けば清州の市街地がひと目で見渡せる。‘青少年文化の家’を過ぎて桜並木の茂る牛岩山循環路を登る。3.1公園⑦へ行く森の道がうっそうとしている。牛岩山(353m)登山路入口の一つだ。3・1独立宣言33人中には忠北出身が6人いるが、この内5人の銅像が立っている。公園には簡易売店とトイレがある。公園から少し降りてくれば右側に2階建ての彫刻展示場兼カフェ ブルックスがある。2階屋上で茶を飲みながら市内を見回すのにちょうど良い。 コーヒー5千ウォン.

降りてきてまっすぐ歩き、中央市場前の四つ角を渡りなお進む。中央市場通りをすぎれば左側に‘車のない通り’が始まる。入口は一時古本屋が13軒にも達したという旧古本屋街だ。創業40年になる古本屋3軒が残っている。清州は世界で最も古い現存金属活字印刷本<直指>を刷った古印刷文化のゆりかごだ。路傍にも通りの横断幕にも簡単に‘直指’という文字に出会うことができる。

活気あふれるファッション街を通りソンアン道に入る。北門を通じて清州邑城内に入った地点だ。清州邑城は壬辰倭乱の時に倭軍が占領したものを官軍と義兵が熾烈な戦闘の末に奪還し全国に外敵退治の自信を植え付けた所だ。路傍に ‘北門跡’ であることを知らせる碑石⑧がある。清州邑城城郭と東西南北の城門は日帝初期まで存在していた。日帝は城門と城郭を壊し、下水溝の築台に使い城郭跡に沿って道をつけた。

金融街を過ぎ百貨店街をすぎる。若くて新しく派手なものがあふれる通りの一方に驚くべきことに、古くてすりへった遺物一つが体を真っすぐにして立っている。(LOTTE)ヤング・プラザ裏の広場のまん中に高く聳え立つ国宝41号,龍頭寺址鉄幢竿⑨だ。幢竿は寺の入口に立てて旗を揚げて法会などを知らせた一種の旗竿だ。寺の跡地は跡形なく消えてしまったが、ここに高さ12.7m(本来は20m)の鉄幢竿だけが残った。幢竿には建立年代の‘峻豊3年’(高麗光宗13年・西暦962年)等、393字の銘文が浮き彫りされている。

←立てられて千年を越えた。清州都心のまん中ににょっきりと聳える龍頭寺址 鉄幢竿(国宝41号).


イチョウの年齢が900才

戻ってきて道の向かい側の中央公園側の飲食店通りに行く。うどん屋・ホットック屋・お好み焼き風お餅料理屋など伝統的な店が集まっている路地だ。中央公園に入れば都心のまん中で出会ううっそうとした森と共に並びたつ碑石たちに驚く。清州城奪還の先鋒大将 趙憲・靈圭大師追悼碑など公園には50ヶ余りの大小碑石が立てられていて‘碑林公園’とも呼ばれる。忠清兵営の正門だった忠清兵馬節度使営門⑩と東軒の後方にあったものを移してきた美しい楼閣,望仙樓⑪の威容に出会うことができる。高麗末、李成桂に反対し監獄に閉じ込められた牧隱,李穡などが大洪水の時に木に登って命を助けられたという樹齢900年のイチョウ ‘鴨脚樹’ も見ものだ。中央公園の門を出れば南寺路と南州路が出合う地点、旧邑城の南西側隅付近だ。ここまで4km余り歩いた。

清州=文・写真イ・ビョンハク記者leebh99@hani.co.kr

←地図グラフィック デザイン モッジッ

ウォーキング メッセージ

中部高速道路西清州出入り口から出て興德路を通り清州市内に行くか、京釜高速道で清州出入り口から出て36号国道を通り直進し社稷路に沿って行く。清州大橋を渡り上当交差点で左折し5分ほど行けば左側に清州市庁がある。

3代続けてパンとウドンを売ってきた西門ウドン(西門製菓・043-256-3334)と豚カツ・ウドンを一緒に売るコンウォンダン(043-255-3894)は清州ウドンの2大名家だ。南州洞解酲湯専門店(043-256-8575)は65年間にわたり南州市場入り口で鮮血解酲湯を任されてきた店。西門五叉路付近の路地にはカワニナ汁専門食堂が2軒ある。サンジュハルモニ家(043-256-7928),味元食堂(043-256-1617).

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/212/358528.html 訳J.S