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[マガジンesc]矗石楼(チョクソンヌ)に上がって詩でも一首詠じてみようか

原文入力:2009-04-29午後10:18:03
escワーキングマップ5. 晋州南江と晋州城
慶南,晋州城から西部市場・晋州女子高を経て南江竹林まで7km

イ・ビョンハク記者

←晋州南江の南側にある市民公園から眺めた晋州城,矗石楼。論介祭りの時、矗石楼下の義岩で論介殉節再現行事が行われる。

晋州は忠節の故郷と呼ばれる。忠節の主舞台は南江辺の晋州城だ。壬辰倭乱の時、酷い戦闘があった所だ。戦闘の只中に金時敏,キム・チョンイル,チェ・ギョンフェ,コ・ジョンフなどがいて、義妓論介がいた。城内には矗石楼があり川には論介が敵将を抱いて飛び込んだ岩(義岩)がある。晋州歴史文化の核心、晋州城の矗石門の前から都心歩きを始める。

晋州にも仁寺洞骨董品通りが

城内に入る前に先に見るものがある。すぐそばのチャンオ小路の前に建つ衡平運動記念塔①だ。1923年この地域の白丁など下層民が教育差別に反発し ‘衡平社’ を組織し平等運動を展開したことを賛える塔だ。以後、衡平運動は各団体と連係し全国に広まり10余年間続いた。

塔の後の晋州文化院建物に入る。1階にはシルク展示販売場が、2階には郷土民俗館②が位置している。晋州はシルクの故郷だ。上坪工業団地の110ヶ余りのシルク生産工場で国内シルクの70%を供給している。民俗館の主人公はチャンソク(伝統木家具・韓国式家屋などに使われた継ぎ鉄や装飾物)だ。多様な紋が彫られた蝶番・鉄の取っ手・錠前・鍵をはじめ、あらゆる動植物をまねた飾りものをじっくり見るのはとても面白い。皆昔の住居や建物に直接使われていたものだ。無料(月・木曜日休館).

←晋州城矗石門前の晋州文化院2階にはチャンソクを集めて展示した郷土民俗館がある。

矗石門③を通って晋州城(1千ウォン)に入る。百済時代に初めて積んで以来、高麗の時に大々的な修築を経て倭寇の侵入に備えた城だ。現在の城郭は内城(周囲1.7km)だ。本来は周囲4kmに達する外城があったとするが痕跡を見つけることはできない。文化遺産解説者チャン・イルヨン(68)氏は「日帝時代まで外城の跡があった」として「特に城外に大寺池と呼ばれる自然の堀があったが日帝がみな埋めてしまった」と話した。

日帝は城郭までレールを敷いて載せてきた石を池に投げ込み埋めてその場に官公庁建物を作った。

矗石楼④は平壌,浮碧樓、密陽,嶺南樓とともに国内‘3大名楼’に挙げられる大型楼閣だ。高麗末に建てられ壬辰倭乱の時には指揮所として使われた。曲がりくねって流れる南江の川の流れがひと目で見下ろせるこの楼閣を訪ねて多くの文人墨客が詠じてまた詠じた。「退渓も詠じ多産も詠じ、とにかくこの地歴代の物書き中、矗石楼にきて詩の一首も詠じなかった人がいないほど」とチャン氏は話した。

詩人墨客たちがこのように晋州の地に駆せ参じたのは、景色も景色だがその有名な晋州妓生のためだっただろう。北に平壌妓生がいれば南には晋州妓生がいた。美人をそろえ学問・芸術にも造詣の深いこれらだった。これらの中に論介もいて山紅もいた。山紅は旧韓末妓生だ。山紅は乙巳五賊中の一人である李址鎔が千金を約束して自分をを妾としようとしたが、‘私がいくら賤しいからだでも人の務めは果たすのに、どうして逆賊の妾になることができようか’と言って面前で断った。売国奴イ・ジヨンは激怒し山紅にむやみにげんこつを振り回したという。この話が黃玹の<梅泉野錄>に伝えられている。山紅が同衾を断った後、自決したという説もある。

義妓山紅は先立って先輩義妓の論介の祠堂である義妓祠に参拝した後、詩一編を残した。この詩を刻んだ懸板が論介霊廟の左側軒下に懸かっている。右側には梅泉の詩が懸けられている。

←晋州南江と晋州城

3800人の兵力で2万の外敵をはね除けた(晋州大勝)金時敏将軍戦功碑を見て、旧道庁舎正門の嶺南布政司を過ぎ国立晋州博物館⑤のほうへ歩く。歩きながらチャン氏が話した。「私たちが歩いているこの土の道は壬辰倭乱の時に亡くなった7余万の民や兵士の亡骸であるわけですね。」晋州城は晋州大勝の翌年に再侵入した3万7千余の倭軍に陥落し、ほとんど全ての市民が虐殺された。博物館では壬辰倭乱の実状と歴史を展示している。朝鮮時代の天字銃筒,飛擊震天雷,李舜臣の親筆など多様な遺物が展示されている。 無料(月曜日休館).

晋州城の2次戦闘で殉死した方々の神位を祀る彰烈祠⑥と僧兵たちの魂を賛える寺である護国寺⑦を見て西将台⑧に上がる。南江上流側の展望がすがすがしい。西門を出れば仁寺洞骨董品通り⑨だ。20余年前に分散していた骨董品店が一つ二つと集まってできた通りだ。商店が大型化し、通りが整備され古めかしい味は消えたが、今でも20余軒が残って路傍に石臼・ひき臼・仏像など各種の石物をならべている。

晋州冷麺が待つ西部市場⑩までは多少退屈な道。2日・7日市の西部市場内の晋州冷麺店は60余年にわたって晋州式冷麺を商う食堂だ。店の名前は釜山冷麺屋だったが3年前に晋州冷麺に変えた。麺よりは海産物の出し汁とたっぷりの牛肉天ぷらトッピングが魅力だ。

←晋州の鎮山,飛鳳山の裾野の義谷寺入口に立つハングルと漢字を共に刻んだ碑石.

晋州女子高四つ角を過ぎ晋州女子高の方に歩く。晋州女子高は80余年前に寄付を集めて建てられた民族資本学校だ。故朴景利先生がこの学校で学んだ。学校内のヒョジュ記念館⑪でこの学校の過去の姿と記録を調べることができる。青い才能保育室の三叉路で左側路地に入るとマンション駐車場の前の狭苦しい路地に沿ってしばらく上がれば、日帝時代に作られた楼閣,飛鳳樓⑫に達する。圃隱 鄭夢周が留まった所にその子孫が作ったものだというが門が堅く閉ざされている。そばには韓式・倭式混合建物がある。また下ってきて法慧寺路地に上がれば飛鳳樓を上から見下ろすことができる。

飛鳳山は晋州の鎮山だ。山容が鳳凰が飛ぶ姿だという。麓につながる車道に沿って降りて行き、左に5分ほど歩けば義谷寺⑬に着く。壬辰倭乱の時、民・官軍はここでも倭軍に対抗し激しい戦いを行った。寺の名前もここに由来する。‘飛鳳山義谷寺’という扁額は民族代表33人中の一人オ・セチャンが書いたものだ。寺の前右側の山裾には漢字とハングル(プミョ生天目連経)が共に彫られた小さな碑石⑭が懐かしい。下ってきて三叉路の大きな木の下に座ると木にかかった時計が傾いている。時計を見た年配の方が言った。「45年になるけどまだ幼いケヤキよ。」

旧晋州客舍は今のロッテ住宅商店複合アパートの場所にあった。すぐそばに用意された旧建物礎席が客舍の場所⑮であることを教えている。道の向かい側路地に降りて行けば中央市場(16)が始まる。「坊主の髷と娘の火×を除いて何でもある」という西部慶南の最大常設市場であり「子供が結婚すると言っても、ここに来なければ結婚できない」という所だ。

南江辺で暖かいコーヒーを1杯

中央市場そば都心裏路地は‘車のない通り’(17)だ。晋州ファッション1番地だ。車のない通りでは青少年たちの歌公演が開かれたりもする。警察署側に行けば道が多少傾斜していて凹んでいた地域が現れる。旧外城の外にあった池の大寺池を埋めた地域だ。青少年修練館路地に行く。修練館は旧晋州市庁の場所にある。旧官公庁街らしく周辺路地には食堂・喫茶店などが並んでいる。伝統喫茶店‘竹香'では多様な世界の銘茶と伝統モチを味わうことができる。大通りを渡り現場アートホール(18)は晋州市内唯一の常設公演舞台だ。5月週末には環境児童劇 ‘どんどん古物遊び場’を上演する。 1万ウォン.

矗石楼を眺めながら晋州橋(19)を渡り、川辺の竹林散歩道(20)を歩く。風も日差しも緑色だ。昔、南江辺には竹林だらけだったという。鳳凰が居る所(飛鳳山)だから、その餌になる竹が多いのは当然の道理だ。噴水台の前の道の向かい側のカフェ コーヒーポット(21)でウォーキングを終える。約7km。直接焙煎したコーヒーに直接焼いたパンもつく。エスプレッソ3千ウォン,インド式紅茶チャイは4千ウォン。無線インターネット可能.

ワーキング メッセージ

大田~統営高速道路に乗り、西晋州出入り口で降りて、晋州市内に入る。晋州城立て札があちこちに立っている。あいさつ広場(ロータリー)前から拱北門と矗石門の前に駐車場がある。 30分500ウォン。 観光案内所は拱北門の前にある。

晋州冷麺(以下地域番号055) 741-0525,ウナギ専門プングク743-1509,すし・メウンタン・オデンが美味い中央家741-5496,30年伝統の珍味泥鰌湯741-4633,創業50年を越える中華料理店北京場741-2757,約50年になる解腸汁・ピビンパ家第一食堂741-5591,80年伝統のピビンパ家チョンファン食堂741-2646.晋州城観光案内所749-2485.5月1~3日晋州城では晋州の伝統文化と歴史散策ができる第8回論介祭りが繰り広げられる。

晋州=文・写真イ・ビョンハク記者leebh99@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/212/352482.html 訳J.S