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“1400年前 百済人, 水洗便所 使っていた”

原文入力:2009-04-14午前12:31:34
益山,王宮里 大型厠跡 石築水路など分析
日本学者 “韓国・日 古代史通して唯一の遺跡”

ノ・ヒョンソク記者

←王宮里 厠遺跡の復元模型. 遺跡横の王宮里展示館にある。

時代と空間がどれほど変わっても人間の排泄欲求は変わらない。1400余年前この地に暮らした先祖はどんな方式で大小便の‘生理現象’を解決したのだろうか。

興味深い端緒がある。去る2004年、6~7世紀百済宮廷跡として有力な全北,益山,王宮里遺跡で国立扶余文化財研究所が初めて発掘した大型厠跡だ。<ハンギョレ>報道で初めて知らされたこの遺跡は、王宮里王宮の跡地西北側工房跡付近で発見された深さ3.4~1.5m程度の大型糞尿溜め三個が核心。東西方向に並べて掘られた糞尿溜めはそ各々一方の端に尻尾形の小さい水路をと通し横の石築水路に汚水を流す仕組みだ。溜めの中から底を浚うための木棒(朱木)と木製柱,瓦の破片など数十点余りが発見され、底土を掘って分析してみると寄生虫卵も多量検出された。百済人の糞尿が詰められた国内最高の便所であることが立証されたわけだ。国内の厠遺跡調査は1990年代以後、光州,(光山区)新昌洞,先史遺跡と慶州,新羅王京遺跡などで便所跡あるいは人糞と推定される遺跡,遺物が報告されたのが端緒であった。だがこれらの遺跡は明確な実証分析資料を残すことができず王宮里遺跡はこれまで国内で公認された唯一の古代便所遺跡として国内‘厠考古学’の母胎に位置した。

研究所側は王宮里便所跡が溜めの上に木材で排便踏み台を当て、その上に草と瓦で屋根をあげた建物だったと推定する。だが、後代考古学者などの意地の悪い問いは続く。本当に溜めの上に尻をむいて用をすませたのだろうか? 王宮跡の主人だった貴族も下層民と顔を向き合わせて用をすませたのだろうか? 実際に2001年この遺跡では座便式便器のような携帯用便器が出土したこともある。

これと関連して、去る9,10日に開かれた国立扶余文化財研究所の王宮里発掘20周年国際学術大会(円光大)では古代韓国と日本の化粧室遺跡を初めて比較検討する日本学者の仮説が出てきて注目を集めた。 ‘日本古代都城の糞尿処理溜め論’を発表した日本国,文化財研究所の井上和人部長は「王宮里厠遺跡は今までに発掘された古代韓日遺跡の中で事実上唯一の水洗式厠と推定されるという点で特別だ」という分析を出した。「よく似た7~8世紀古代日本の王京である平城京,藤原京の場合、発掘された3,4ヶ所の便所跡は用を済ます所ではなく携帯用便器の糞尿を捨てた投棄場に過ぎない」ということだ。

王宮里便所遺跡の場合、連続した糞尿溜めが水路で近隣水路と繋がっていて、上に建物をあげた跡が明確で、しゃがんでする事をして汚水は外に流す機能を果たしたという見解だ。ただし位置が王宮跡中心部から離れた工房近所なので下層職人らが厠を使い、王族たちはおまるで排便した後に内容物をこの厠に捨てたと推定した。井上は「日本の場合、古代宮廷内外道路周辺,河川や近隣で便所を使ったと推定してきたが、宮城規模に比べ数があまりに少なく、河川より遺跡が高い場所に位置しているため水を引き込む水洗式構造と見るのは困難だ」と主張した。チョン・ヨンホ扶餘研究所学芸士も「王宮里便所跡を身分別に変えて使ったという仮説は説得力がある」として「人糞溜めから水路に通じる通路の傾斜度が低い点から見て、汚水は流したが人糞などの内容物は掘って片づける半水洗式構造だったと考える」と話した。

古代人の排せつ物と排せつ空間を探求し、当時の生活文化の実状を把握する厠考古学は西欧と日本では1970年代以来普遍化した研究調査方法論だ。ノルウェーのバイキング遺跡,インドのモヘンジョダロ古代遺跡,日本,九州,博多の外国使節宿所跡である鴻臚館遺跡などが代表的な事例に挙げられる。日本学界の場合、古代宮城便所に積もった糞尿の悪臭のために首都をあっちこっちに移転しなければならなかったという‘糞尿政治史’まで議論されるほど、厠考古学が活性化していたりもする。まだ研究はヨチヨチ歩き水準だが、国内でも厠遺跡は追加で出てくる可能性が高い。この間、遺跡発掘過程で厠用途を考慮しなかったり、発掘した溜めの有機物分析に注目しなかった場合が大部分であったため、発掘調査の観点を変えさえすれば他の新羅,高麗,朝鮮時代遺跡からも厠遺構が相次いで出てくる可能性は充分だということだ。実際に2006年、京畿道,楊州の朝鮮初古刹である檜巖寺跡発掘現場からは国内最大規模の朝鮮時代解憂所(便所)遺跡が確認され学界の関心を集めたこともある。

一方、この日学術大会では百済武王の本拠地として知られた益山が当時、首都,泗沘城(扶余)から遷都した別途の首都であったかも争点になった。チェ・ワンギュ円光大教授は<三国遺事>等に言及された弥勒寺,王興寺創建記録などが文脈上、武王の遷都を暗示するとしつつ「先王の法王の時から遷都を計画していたと見られる」という主張もした。
益山/ノ・ヒョンソク記者nuge@hani.co.kr

写真国立扶余文化財研究所提供

原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/349533.html 訳J.S