原文入力:2009-04-10午後09:15:24
ハン・スンドン記者
<権力と戦う記者たち>アリシャ シェパード著・チャ・ミレ訳/プレシアンブック・1万8000ウォン
1972年6月17日、ワシントン ウォーターゲート ホテル団地内の民主党全国委員会本部にこっそりと侵入した暴漢5人が逮捕された。ビジネス スーツ姿に外科手術用手袋をはめた彼らは最新型盗聴装置を持ち一連番号が続く100ドル高額券数千ドルを持っていた。
亡命キューバ人たちが犯した‘三流住居侵入’または‘窃盗事件’(彼らの内4人がキューバ出身者であった)ぐらいに置き換えられた‘特別な事件ではないように見えた’その事件は、わずか2年後に大統領の恥ずべき下野という米国史上初の大事件に拡大する。法務長官とホワイトハウス秘書室長、ホワイトハウス顧問、国内首席顧問など一時権勢を誇った権力実力者四十人余りが監獄に入った。アカデミー賞4部門を席巻したロバート・レッドフォード,ダスティン・ホフマン主演の<大統領の陰謀>という映画を通じても私たちはその真実の一端を覗くことができた。その事件は米国社会と歴史を変え、米国と世界言論の存在様式も変えた。最近は反動的逆流で目がくらむようだが、韓国ジャーナリズムが苦難を押して粘り強く到達しようと努めてきた理想郷も相当部分がウォーターゲート事件を通じて勝ち取った米国言論の成果に根元を置いている。米国言論はその後に変質したが、ウォーターゲート事件を巡る米国言論の戦いを通じて、私たちは韓国言論の現住所と問題をより鮮明に把握できるかも知れない。
WP記者 ‘ウォーターゲート’ 取材するや米政府 ‘TV許可しない’等の脅迫に屈せず調査報道で勝利した30年前の事例 現在の韓国言論に教訓
1973年4月末当時、米国大統領リチャード・ニクソンは補佐官を通じて<ワシントンポスト>のウォーターゲート事件担当記者ボブ ウッドワードを脅迫した。「その質の悪い若造野郎ども、ちょっと気を付けろと言え」 ‘野郎ども’ は当時30才のウッドワードと彼の29才の取材仲間 カール バーンスタイン。しかし、すでにニクソンの敗色は深まっていた。その何日か後の4月30日、彼の最高補佐官 ヘリー ホルドマンなどが辞任し、解雇されたホワイトハウス法律顧問ジョン・ディーンは過去の主人を攻撃していた。<ワシントンポスト>以外は殆ど沈黙を守っていた米国言論らがその頃には再びウォーターゲートに揃って駆せ参じていた。ウッドワードとバーンスタインはその時初めて自分たちが「政府を転覆させている」という事実を実感した。
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その時ですら政府は自身満々に見えた。ニクソン再選運動本部責任者を務めた前法務長官ジョン ミッチェルは、自身の不正に関する暴露記事が出るという事実を知ると電話でバーンスタインを脅迫した。「もしその記事が本当に出れば、キャサリン・グラハム(ワシントンポスト社主)の乳首を巨大な圧搾機械で捻ってやるから覚えておけ」ロナルド・ジーグラー ホワイトハウス スポークスマンは報道内容を全て事実無根として否認した。スピロ・アグニュー副大統領は<ワシントンポスト>を根拠のない記事で国家安保を威嚇する卑劣な新聞として国民を扇動し他の報道機関と仲違いさせた。1973年初め、ワシントンポストの株価は1株38ドルから21ドルに暴落した。政府がこの新聞社の所有するテレビ放送局2ヶ所の再認可を問題視したためだ。1973年9月15日に録音されたニクソンの発言はこれを予告した。「最も重要なことはワシントンポストが今回のことで本当に地獄のようなものすごい困難に陥ることになるという点だ。その会社はテレビ放送局を所有しているのだから。政府から許可の更新を受けなければならない。これから途方もなく険悪な戦いが繰り広げられることを。」
だがわずかぼ時間が流れ、地獄に落ちたのはニクソン自身だった。
中国と和解しベトナム北爆を強化するなど権力の絶頂にあったニクソンの1972年大統領選挙再選が確実な状況(49州で民主党候補ジョージ・メクガバンを抑えた)で、大多数の言論は沈黙していた。<ニューヨークタイムズ>と<ロサンゼルスタイムズ>等、初期に競争した一部新聞たちまでウォーターゲートに目を瞑った。ウッドワードによれば、「官庁側配布記事に対する汚い愛着を持った捕虜たち」,「表面だけ強い態度」と「情報をあっちこっち分類して実際にやることは何一つもしない奴ら」,「政府報道資料をそのまま書き写す小賢しい速記士」だったホワイトハウス出入りの古参記者たちはホワイトハウスを怒らせれば、金と名誉が保障されたホワイトハウス出入り記者の座を失うかもと心配したし、ワシントンポストの若き専門担当新参記者たち(ウッドワードは事件発生当時、入社9ヶ月,バーンスタインは11年目だった)を見下していた。ホワイトハウス出入り政治部記者ではなく、社会部首都圏担当記者であったウッドワードとバーンスタインは既成制約に縛られていなかった。その ‘若造たち’ が潜伏勤務と関係者夜間取材など、今日 ‘調査報道’ の核心技法として知られる執ようで猪突的な取材方式が、米国言論史上その時初めて導入された。社主と編集者,デスクがみな固く団結したワシントンポストは孤独だったが退かなかった。
1971年6月、ベトナム戦争戦争拡大の主犯は米国だという事実を暴露した ‘ペンタゴン ペーパー’ 報道とともに、その時が米国言論としては権力を牽制する ‘第4部’ としての存在感が最も鮮明だった全盛期だった。ワシントン地方新聞4ヶの中で3位に止まっていたワシントンポストが一躍ニューヨークタイムズに次ぐ一流全国紙として登場したのがその時期だった。ワシントンポスト成功の最大功労者はもちろんウッドワードとバーンスタインだが、もう一人ニクソンの逆説的 ‘功徳’ も決して見逃せない。ニクソンは2期の任期を半分も満たせないまま1974年8月9日辞任した。
アメリカン大でジャーナリズムを教えているアリシャ シェパードが2007年に出した<権力と戦う記者たち>(WOODWARD AND BERNSTEIN- Life in the Shadow of Watergte)は、まさにその過程をウッドワードとバーンスタインのキャラクターと活躍像に焦点を合わせて見せてくれる。
エール大卒業で海軍中尉出身の典型的な白人エリートのウッドワードと、長髪でチェーンスモーカーの反抗的なユダヤ人大学中退者であるバーンスタインの全く相反するキャラクターが、ウォーターゲートを媒介に最上のタッグに変貌していく過程、そして殆ど知られていない出世以後の彼らの人生流転が中心をなす。最後の章で米国言論史上最大のミステリーであった ‘ディープ スロート’ すなわち決定的な局面にウッドワードを助けたが33年間その正体を現さなかった政府高位関係者(連邦捜査局・FBI 第二人者だったマーク フェルト)のカミングアウト過程を別に扱っている。 ハン・スンドン選任記者sdhan@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/349188.html 訳J.S