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哀愁の植民地の浪漫よ~

原文入力:2009-04-05午前11:00:56
[マガジンesc] escウォーキングマップ3.
仁川,自由公園とペダリ(船橋)路地
開港期の名残が漂う仁川チャイナタウンでチョル麺の故郷 新浦洞
ペダリ 古本屋路地まで4.2km

ナム・ジョンヨン記者

←チャイナタウン。派手な紅灯のように濃い中国の食べ物はここを訪れる観光客を誘惑する要素だ。

租界地は外国人居住地を意味する。帝国主義時代、租界地に住む外国人たちは自ら警察権と行政権を行使した。未だ温存されている租界地の道路や建築は植民地的浪漫を刺激する。上海のフランス租界地、青島のドイツ租界地が旅行者で混みあう所以だ。19世紀後半、仁川市,自由公園一帯には清国と日本の人々が居住村を形成して暮らした。まさに仁川 清日租界地だ。ここからウォーキング ツアーを始めた。

←仁川,自由公園とペダリ路地. (※クリックすればさらに大きく見ることができます。)
何かと‘韓国最初’タイトルのつく建物

昼前に仁川駅に降り立ち、旅行情報センター①で地図を手に入れた。全世界どこでもチャイナタウン入口を象徴する‘牌樓’②が仁川駅前に立っている。第一牌樓を通過しチャイナタウンに入った。ここはジャージャー麺の故郷だ。中国にもない‘韓国式フュージョン料理’がどのようにして誕生したのか、文化史学者と好事家らの論争になったが、20世紀初期に韓国最初のジャージャー麺がここで始まっただろうという点には誰もが同意する。

←自由公園広場から見えるマッカーサー将軍の銅像。韓-米修交100周年記念塔と共に鷹峰山の頂上に建てられた。

だが、日帝強制占領期間の仁川最高の清料理屋である‘共和春’③は廃虚となっていた。‘建物崩壊の危険があるので駐停車をするな’という横断幕が人を追い立てる。人々はここで写真を撮り‘旧 共和春’の名前を取った新しい飲食店、共和春④に駆せ参じジャージャー麺を食べる。道教と仏教とが混ざり合った中国式寺院 義善堂⑤にも立ち寄った。

<三国志>の主要場面を壁画に描いた三国志通りの入口にはギャラリーシュィピルラウム⑥(cafe.naver.com/spielraum)がある。一部屋の大きさの風雅なギャラリーでは仁川の作家パク・ソニョンの展示会が開かれている。シュィピルラウムの下は清・日租界地階段⑦だ。階段の西側が清国租界地、東側は日本租界地だった。階段を中心に建築様式が異なる。左側は地味な倭式建築で、右側は軒とテラスを備えた清式建築だ。

階段を横断し日本側の土地に入った。日本第一銀行⑧,第十八銀行⑨,第五十八銀行⑩はルネサンス様式の石造建築物だ。第十八銀行は‘仁川開港場近代建築展示館’として活用されている。今日旅行で見る建築物と展示物に対する説明がぎっしりと詰まっている。

海抜69メートルの鷹峰山に位置する自由公園に向かって上がった。中区庁として使われている旧仁川府庁舎を過ぎ、旧 濟物浦クラブ⑪に着いた。1901年に完工したこの建物は清・日租界地と共同租界地(清・日以外の国の人々が暮らした所)に生きる人々の社交場だった。解放後には駐韓米軍のクラブとして利用された。階段を上ぼりきれば米国の空間だ。右側にはマッカーサー銅像⑫が立ち、左側には韓-米修交100周年記念塔⑬が立っている。頂上からは100年間に巨大な産業港に変身した仁川近海が見下ろせる。

←チャイナタウンにある中国式寺院 義善堂.

自由公園は韓国最初の西欧式近代公園だ。ソウル,タプコル公園より9年はやい1888年に造成された。自由公園の本来の名前は各国公園だった。租界地に清,日本,米国,ロシア人などが暮らしていたためだ。だが日帝強制占領期間になり公園の名前は西公園に変わり、解放後には万国公園と名づけられ本来の意味が回復したが、1957年マッカーサー銅像設置を記念して再び自由公園に名前が変わった。マッカーサー銅像は彫刻家キム・ギョンスンの作品だ。マッカーサー将軍銅像建立委員会はその年7月15日、表示石にこう書いた。「1950年6月25日共産徒輩が北から民国に侵入した時、直ちに米国政府は韓国救援を決め、マッカーサー将軍に共産侵略抗戦に参加したすべての軍隊を指揮するように命令した。」

自由公園一帯の空間配置過程は韓国と外勢が結ぶ関係性を歴史的に見せてくれる。2005年にはマッカーサー銅像撤去を巡り対立が起きた。統一運動団体はマッカーサー銅像撤去示威を行い、保守団体はガス銃を持ち銅像死守警備隊を組織した。元来、仁川市と仁川市民団体は自由公園を万国公園に復元し銅像を他へ移転しようとした。両側陣営の対立が激化するやこういう計画は光を失ってしまった。当時の騒乱は場所と景観解釈を巡る象徴的な事件だった。

←チャイナタウンに立つ孔子像.

マッカーサー将軍の下側には、こういう歴史的対立の深刻性に不似合いな‘武陵桃源 亭子’と‘自由公園 鳥檻’がある。鶏とホロ鳥,マガモ,ガチョウの間で白ウサギが跳ね回る鳥檻は本当に‘近代的な鳥檻’だ。自由公園2路を下って行けば虹霓門⑭だ。日帝強制占領期間、日本租界地に突き抜けたトンネルだ。日本人たちはアナモン(穴門)と称し、仁川の人々は虹霓門(虹門)と呼んだ。内洞聖公会聖堂⑮を見ながら降りて行けば新浦市場だ。まさにチョル麺の故郷であり新浦ウリマンドゥ(16)の本店がある所だ。シアトル パイクプレイスのスターバックス本店に劣らないという自負心を持って、餃子盛り合わせとチョル麺を食べた。各々3500・3800ウォン。昼前に出発すれば遅い昼飯に丁度よい場所だ。新浦市場では鶏江亭も有名だ。新浦鶏江亭(17)と新浦美味鶏江亭(18)が雌雄を競う。週末には鶏江亭で食べようとする行列が大通りまで続く。

←チョル麺人気受け継いだ新浦市場 鶏江亭

新浦市場から地下道を渡れば畓洞聖堂(19)だ。1897年に建てられた美しい聖堂だが、現在は補修工事をしている。開港路に沿って7~8分歩き京仁線陸橋をすぎればペダリ(船橋)だ。開港直後、外国人たちは仁川港から鷹峰山まで良い根拠地を選んで暮らし、韓国人は内陸のペダリに追い出された。その後、ペダリは仁川近代教育と宗教,交通の中心地として機能した。ペダリまで来ると多国籍性は消え韓国的近代の風景が優勢になる。代表的なものがペダリ古本屋路地だ。醸造場を改造した美術空間スペース ビーム(20)でも展示会でなくとも過去の風景に出会うことができて良い。 写真集図書館ハムケ サルギ(一緒に暮らすこと)(21)と詩がある小さい本の道(22),近代建築物のチャンヨン小学校(23),女子宣教師寄宿舎(24)なども見どころだ。春の日の午後、チャンヨン小学校に座り、子供の選手たちが行うリトルリーグ野球を見物した。途中でアベル書店(25)に立ち寄り古本三,四冊も買った。東仁川駅に到着すると太陽が沈む。ここまで4.2kmを歩いた。

街を歩いてみれば古く色あせた看板をよく見る。昔の痕跡は微妙な想念を呼び起こす。

ウォーキング メッセージ

◎ソウル,龍山駅~東仁川駅区間は一時間に3~9回ほど京仁線急行電車が運行される。ひとまず東仁川駅に行き、一般電車に乗り換えて仁川駅まで行くのが早い。龍山駅出発基準で1400ウォン(カード乗車の場合)。乗り換え時間を含めて一時間程度。

◎仁川駅旅行情報センターであらかじめ地図を求めて出発する。‘チャイナタウン案内図’と‘近代建築に見る歴史’を欲しいと言うこと。この他にも仁川近代史を説明した良いパンフレットが多くある。仁川開港場近代建築展示館,済物浦クラブなどでも関連資料を求めることができる。チャイナタウンにはジャージャー麺通り,サッパ刺身通りなど飲食店が集まっている。新浦市場にもスンデ・餃子などを売る粉食店が多い。

仁川=文・写真ナム・ジョンヨン記者 fandg@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/212/347543.html 訳J.S