原文入力:2011/09/27 20:49(3938字)
←チョン・サンホ 西原大教授 社会教育学
ソウル市長選挙でパク・ウォンスン弁護士に代表される市民候補が浮上する中で既存政党政治に対する省察的論争が起きている。市民候補が持つ力を肯定しつつも政党政治を離れては健全な民主主義を考えることができないという主張、既成政党が政治を独占するという考えを捨てる時期になったという主張などが多様に提起されている。肌合いを異にする二人の学者の見解を紹介する。
市民候補のための選挙はない
親環境無償給食・住民参加予算条例の実態を調べてみたら
それなりに二制度共に活発に施行している所は
政党間競争が熾烈な分占政府であった
最近、政党と公職に距離をおいていた市民候補たちのソウル市長出馬を巡る賛否論争と社会的関心が熱い。野党圏支持者たちにとっては無所属と政党候補の間の先例のない今回の選挙戦が非常に興味深いイベントでありうる。さらにパク・ウォンスン候補が支持率と道徳性、能力を兼ね備えた卓越した人物という点で反ハンナラ党有権者には愉快な選択でありうる。
しかしそれに対して是非を離れて市民候補談論が選挙政局をひっくり返している今日の現実は、韓国政党政治の後進性を反映するものであり政治制度化の次元でいくつかの憂慮をもたらしているのも事実だ。
先ず無所属市民候補は責任政治の拘束から自由であるため政策の一貫性と予測可能性を傷つけやすい。市民候補が当選する瞬間、強大な権限を持つソウル市長を制御できる力は党論と綱領ではなく、彼の個人的善意と道徳的決断だけになる。公約という有権者との明文化された約束があると主張することは政治的浪漫主義の所産だ。政治参加者であり消費の主体として市民はニューライトから参与連帯に至るまで多様な選好と利益を持っている。江南と江北、世代と理念で分化した市民と無所属候補との曖昧な結合は、ややもすると政策混乱と脱政治傾向をさらに深化させかねない。保守と進歩陣営、共に市民候補を自称して出たところから分かるように市民社会全体の利益と熱望を合わせる真の市民候補ははなから成立できない概念だ。
もう一つの根拠は一般的期待とは異なり無所属市民候補の成功事例はそれほど多くないという点だ。米国の有名な政治学者プルレドソによれば地域政治家には△野心的政治家△利他的ボランティアメンバー△町内里長のような地方型△官僚のような政策専門家など四種類のパターーンが存在する。彼の研究で興味深い点は、道徳的名分を重視する純粋な市民活動家よりはむしろ党派性と専門性を備える政治家型(politico)がより長く在任し、地域民主化にも積極的に寄与しているという経験的結果だ。彼はその理由として再選を常に念頭に置いている政党政治家たちが地方議会と地域世論の疎通に一層敏感であり、所属政党を通じて政策的・組織的支援を円滑に受けることができるという点を挙げている。
筆者の研究結果も大きく違わない。去る6月、広域・地方自治体246ヶ所で実施している親環境無償給食と住民参加予算条例の実態を調べたところ、それなりに両制度共に活発に施行している所はハンナラ党と民主党をはじめとして政党間の競争が激しい分占政府であり、次いで大邱や光州のように一政党が団体長と議会を独占している単占政府であり、最も低いところは無所属団体長地域だった。政党間の競争はソウルと京畿道のように頻繁な葛藤と衝突を起こすものの一方では政策革新と住民参加の動機を活性化する原動力だ。
あたかも未確認飛行物体(UFO)のように選挙直前に突然に出現し突然に消えることを繰り返している‘風の政治’の震源地は、卓越した新英雄に対する大衆の期待心理とともに 古い組織と文化に安住してきた硬直化された政党体系にある。
私たちの問題もやはりいまだに両極化の深刻性を体感することもできず、現実的代案を提示せずにいる民主党の無能な江南左派政治にその本質がある。だが、家族や愛国心をその内在的限界と世相変化を理由に廃棄できないと同じように、代議制下での政党もまたそうである。
個人的にパク・ウォンスン候補の今回の挑戦が必ず成功することを願う。だが、その方向は無所属市民候補という脱政党・脱政治の旗じるしではなく既成政党の組織と文化を根本的に革新し内部から蘇生させる方向に向かわなければならない。この課題はソウル市長職を得ることや成功した市長になること以上の貴重な意味を持っている。なぜなら、能力と活力を整えた現代化した政党を作る仕事には金大中、盧武鉉前大統領も、在野勢力も、‘486政治家’も全て挫折してしまったためだ。まさにそのような理由で、それは民主主義を望む人々にとって大変切実で価値ある実験に違いない。
チョン・サンホ西原大教授 社会教育学
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既成政党の自己革新が先だ
←チョ・ヒヨン聖公会大教授 政治社会学
政党を通した代議民主主義に対する
大衆の不信と離反を積極的に認識し
これを契機に現代民主主義の限界を
どのように補完するかを悩む必要
民主主義は政党中心に接近しなければならないか、あるいはそうではないのか、ソウル市長候補を選出するにあたって政党候補を支持しなければならないか、あるいは市民候補を支持するべきかという争点がある。しかし、私はこれは真の争点ではないと考える。事実、近代民主主義で政党の重要性を否定する人はいない。、むしろ真の争点は既存政党が大衆の新しい政治的要求と理解、感受性を代表できないことにより大衆の広範な不信と離反が放置されている現状だ。既成政党に対する不信は事実 韓国のみならず全地球的現象でもある。いわゆる新自由主義的地球化の破壊的空襲により‘社会自らの解体的危機’が出現しているにも関わらず、国際競争力が最高の価値とになり、更には‘企業社会’になる中で政党政治の役割がより一層制約・わい曲されているためだ。
実際 顧みれば近代市民革命以後、民主主義が一度たりとも‘政党を通した代議民主主義’と一体化したことがなく、政党が‘大衆自身の政治’を代表したこともない。‘現実の民主主義’は常に‘人民の自己統治’、‘政治的平等を前提とした人民の参加政治’という理想とは乖離しながら、持続的に挑戦と不信の対象になってきた。そしてまさにそういう挑戦と不信を滋養分として逆説的に近代民主主義と政党は不断に革新されてきた。例えば、そういう緊張のために熟議民主主義や直接民主主義的しくみを拡大し‘政党を通した代議過程の不完全性’を補完しようとする努力も進行されてきた。また、既存政党と大衆の乖離のために自身を革新する政党は大衆的支持を受け、そのような中で西欧の低水準の自由民主主義は社会民主主義段階まで発展してきた。一歩進んで政党を通した民主主義に収斂されない日常の民主主義、生活世界民主主義、草の根民主主義を実現するための多様な努力が‘政党外部’で活発に展開された。 このように見るならば、むしろ政党を通した代議民主主義に対する大衆の不信と離反を積極的に認識する思考が必要であり、それを契機に政党革新と現代民主主義の限界をどのように克服・補完して行くかという悩みに進めることが必要だ。
筆者はこのような革新課題の中で韓国政党秩序革新に対してはかなり明確な考えを持っている。先ず中道改革政党の革新のために民主党、国民参与党、道徳性を持つ非政党勢力・市民社会勢力が連合し大衆の信頼を再獲得する方向に解体的再構成をやり遂げることだ。また別の側面で民主労働党、進歩新党、進歩政党の外部にある労働-労働側市民社会勢力が連合し統合進歩政党を革新的に再構成することだ。(もちろん市民社会団体は独自性を持ち非政党的社会運動を続けなければならない。) そして、この二つの流れが角逐・競争しながら各々別の方向で保守に奪われた大衆の信頼を取り戻してくることだ。そして総選挙や大統領選挙で選挙連合を行うことだ。
ところで現実はどうか。ある意味では正確に二つの経路共に ─色々な要因があるということはわかっているが─ ‘感情的沈殿物’が主な要因となり国民参与党は民主労働党との統合という‘的外れ’な出口を求め、民主党は最初から革新の動力を失い漂流していて‘今回は記号2番が必ずいなければならない’という現状維持的な発想で接近している。恐らく金大中のようなカリスマ的リーダーがいたとすれば民主党は‘秩序ある輸血’を通じて大衆との距離を狭めるための作業にすぐに着手しただろう。反面、急進進歩政党は統合政党へ進む途中で座礁し四分五裂する難局に置かれている。このことが既存の不信と離反を増幅させ、いわゆる‘アン・チョルス現象’ ─もちろんこれは複合的性格を帯びているものの─ のような形で大衆の政治的期待と希望が浮遊させる結果を産んでいる。
このような点で政党に対する不信と離反を恨むのではなく、そういう不信と離反を取りまとめるための努力を先次的に進行する姿勢を持つことが重要だ。しかも野党圏選挙戦以後には誰がなろうが野党圏全体の候補だから、どの政党の候補かということは現局面では重要ではない。選挙連合も大きく見れば政党政治の延長だ。
チョ・ヒヨン聖公会大教授 政治社会学
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/argument/498172.html 訳J.S