本文に移動

[朴露子ハンギョレブログより] 「英語論文」というフェティッシュ

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/35210

原文入力:2011/05/13午前07:38(3304字)
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

特に考古学や古代史研究においては「威信財」という言葉をしばしば使います。分かりやすく言えば、威信財は統治者の位相を象徴するものの、実用性はあまりない「高級」な品物を意味します。たとえば、みなさんが高校の国史の授業で耳にされたかもしれない「細形銅剣」は、国家形成期直前における典型的な酋長層の威信財でした。統治者の性格が変わるにつれて、威信財の形態も当然変わります。階級社会が発達すればするほど、統治者に内在する文化資本の縮約された表現物が威信財の役割を肩代わりするケースが増えていきます。代表的な例に、朝鮮時代の文民統治者たちの漢詩や四君子絵などがあります。現在は一応 統治階層が分化し多様になったため、彼らには必ずしも画一的な威信財が存在しないかもしれません。たとえば、高級官僚や企業役員の威信はゴルフの腕前でよく表されるはずですが、(極少数ですが)いわゆる「名門大学の教授」はゴルフをしないかできないかもしれません。「名門大学の教授」や、名門大であろうがなかろうが、一応「教授」になり中級官僚ないし企業の中級役員に相当する「待遇」を受け「主流」(すなわち、中産層上層部)に組み込まれたい人には、ゴルフより遥かに重要な威信財が一つあります。

まさにいわゆる「SSCI(これを通常の朝鮮語に訳せば、「社会科学引用索引」といったところでしょう。ただし、韓国における「名門大の教授」たちはもはや通常の半島語を必要としないほど、立派に「内地化」されているということです)の英語論文」です。細剣、金冠、漢詩、四君子絵や日帝時代の弁論大会における日本語の演説などといった韓半島的な威信財の伝統を引き継いだかのように、この「SSCIの英語論文」が今や韓半島南部の学者社会の一つの物神になったわけです。下僕の血と汗を吸い込んで下僕のとうてい読めそうにない漢詩を作っていた両班たちのように、「名門大」の垣根の中にいる彼らは「人文韓国事業」などのプロジェクトを通じて庶民の納めた血税を受け取り、その血税で正常な韓国の民草には読めそうもなく読む価値もあまりない文章を生産しているのです。温故知新の言葉どおり、過去のあらゆる不條理や弊害の精神を受け継ぎ、新たな精神病的な流行をせっせと作り出したわけです。

しかし、誤解をあらかじめ避けるために一言申し上げておきましょう。印欧語族の一言語である英語で学問的な文を書いて海外の学術誌に載せることにより、外国の仲間に読んでもらうこと自体は如何なる犯罪行為でもなく、学者、すなわち知識労動者の労動行為の一つにすぎません。漢詩を上手に作ること自体に何の問題もない文芸創作活動であるのと同じようなものです。私の場合も、英語で論文をずっと書いてきました。国内の国史学界における論文作成の基準に無理に合わせるよりは、私にはこちらの方がより簡単だからです。問題は、この労動行為の一種を物神化してはいないかということです。漢詩の他にも記から祭文まで幾多のジャンルがあったように、知識労動者の仕事にも幾多の種類の作業が存在します。学術講演、大衆講演、通常の授業、学生相談、大衆向けの啓蒙書、一般学術書、古典の翻訳など、他人の納めた血税でしか生きていけない人文学者の場合は、特に講演や大衆向けの文章などを通して民衆に借りた借金を返済することも非常に立派な行為になりうるでしょう。以上のような作業の類が大衆と交流する方法ならば、論文作成は仲間たちと交流する方法といえましょう。ふたつの中でどちらが難しいでしょうか。原稿1枚に掛かる時間からすれば、後者はより時間集約的な作業ではあるものの、前者の場合は情熱と(講演の場合は)一種の「舞台芸」、熟練された実力と多くの悩みが盛り込まれているため、実は難易度を比較するのは困難です。どちらがより重要でしょうか。私のような人々の生活を支えている民衆たちとの交流も、互いに知識を分かち合いながら共生しなければならない仲間たちとの交流も、両方ともあきらめることができないため、はっきりとした優劣は決められません。しかし、貴族化してしまった韓国の「学者」社会では、論文以外の如何なるジャンルも実際に認めてもらえず、論文の中でももっぱら「英語の論文」が最高の位置を占めています。交流する仲間たちの所属する言語圏ないし言語駆使力によってその方々の高貴さが決まるみたいですね。

真の意味の「実用」の立場からすれば、これは対民行政を担うべき官僚たちに漢詩作成や『孟子』解釈を要求した科挙制のように、極めて「非実用的な」ことです。たとえば、三島由紀夫研究者が、三島研究の主流をなす日本語ではなく英語で研究論文を書かなければならない合理的な理由は一体どこにあるのでしょうか。日本語で書いても、交流しなければならない仲間たち、すなわち(原則的に日本語を駆使できなければならない)全世界の三島研究者たちは皆読めるはずなのですが、ということです。あるいは、(ほとんど韓国語の読める)職業的な韓国学研究者でなければ誰も関心を持たない『皇城新聞』の儒教観について一体英語で書かなければならない合理的な理由などどこにあるのでしょうか。英語が楽な欧米人なら、本人にとって楽な英語で書くことは理解できますが、死ぬほど英語が不自由な人々までが研究事業をそっちのけにして英語論文作成法に慣れるために勤務時間をすべて費やしたあげく、硬くて読みづらい不自然な英語で何枚かを書くために数ヶ月を無駄にすることの一体どこが「実用」なのでしょうか。

これは学術とも「実用」とも何の関係もない行為です。漢詩の作成能力が朝鮮時代における高級社会への「登竜門」であったように、韓国社会における貴族の言語である英語で(「男工、女工」でない) 同級者ないし上級者たちに読んでもらう文が書けるということは、韓国学界における「主流」への関門を開いてくれる「通門証」となるわけです。いや、むしろ「身分証」とでもいいましょうか。もちろん良い「身分」に生まれた人にはこの「身分証」を手に入れることは遥かに簡単な作業でしょう。出身成分の良い江南族たちは初めから早期留学をして内面まで「皇民化」することもできるし、さもなければ韓国語で作成した文章をお金を使っていくらでも人に「パーフェクト・イングリッシュ」に訳してもらうことができます。それでは、出身成分が良くなく、渡航して内地に行く旅費も学資金もなく、かといって代筆者や代訳者を雇う位置にもない人々は如何に生きていかなければならないのでしょうか。そうです。大衆との交流も勉強も研究もすべて完全に忘れて、ひたすら内地語の完璧な駆使のために励んだり、「SSCIの学術誌」の審査員たちの嗜好についての深層的な調査に没頭しなければならないのです。没頭してみたところで、かなりの人々は外され続けるでしょうが、一応みんなそうしている限り、支配者たちの主な目的は達成されます。大衆たちにこの精神病院や強制労動収容所のような財閥王国での抵抗の道を教えることもできる「知識分子」たちが、一応 大衆と無縁なことに縛り付けられているということこそが まさにその目的なのです。そうしないと、江南族たちの太平聖代は脅かされることでしょう。

「英語論文」を数千篇単位で作成し携帯電話のように輸出しまくっても、次第に日本のような沈滞の道へと進み重大な危機を迎えるこの王国を救うことは絶対にできません。にもかかわらず、何の役にも立たないことに縛り付けられなければならない国内の多くの同僚たちには誠に心から同感してやみません。その方々こそ私よりも遥かにこの問題について深く悩み続けていらっしゃると信じたいと思います。

原文: 訳GF