原文入力:2011-01-30午後07:05:15(1814字)
←パク・ノジャ
この頃、進歩言論まで含めて ‘アデン湾黎明’ 作戦の ‘大成功’ に浮き立っている。 ‘アデン湾での快挙’ で李明博政権の支持率が高まると期待して、"軍の地位が強化された" と喜ぶ保守言論の心理は容易に理解出来るが、進歩言論までもが ‘海賊掃討成功’ に賛辞を送るというのは理解し難い。 恐らく 「私たちの国民がうまく救出され外国犯罪者らが報復を確実に受けた」 ことに対し肯定一辺倒に反応する ‘民心’ に敏感すぎ ‘主流’ と質的に異なる声を出すことができないわけだ。
しかし 「外国犯罪者らが殺害される場合があっても、私たちの国民が救出されることは一次的に重要だ」 という素朴な民族主義的心理を利用し ‘アデン湾での勝利’ に対する多数の韓国人の非理性的な喜びを煽るテレビと保守新聞らは一を知って二は分からない。殺害された人々に対する基本的な惻隠の情にも反するこの反倫理的な ‘国民的歓喜’ は今後私たちに数多くの災難を持たらすだろう。
同じ国内人が極端な窮乏に勝てず窮余の策で人質犯罪を犯すことになるならば、私たちは通常その犯罪に対する当然の公憤と共に貧民を犯罪者に仕立てた気の毒な事情に対する一抹の憐憫を当然に感じる。 それなら普遍的な人類愛の次元では、たとえ国内人を相手に犯罪を行った外国人だとしても同じ視角を適用しなければならなくはないだろうか?
ソ連と中国の後援を受け ‘社会主義的指向’ を明らかにしたソマリア国家は、事実上1991年に東欧圏と共に崩壊、消滅した。 その後、戦略的要衝の地であるソマリアは、1993~1995年の間、米国を先頭とする帝国主義勢力の武装侵攻に始まり、一貫して外勢の干渉に苦しめられてきた。 最近は米国の扇動と後援を受けたエチオピアの侵略(2006~2009)等により戦乱が絶えなかった。 その内憂外患の中で国家再建が遅々として進まず住民たちの生業は常に脅かされてきた。
常識的に知られているように、 "海賊" という集団は崩壊した国家が自国漁民の利益を守れなくなり、外国漁船に漁場を奪われ生計困難に陥った海岸地区の漁民たちだ。 これらの人質犯罪を当然合理化するつもりはないが、外勢に苦しめられてきた韓国人は果たして彼らの痛みを若干でも理解してあげる程度の寛大な心さえもないのだろうか?
犯罪社会学を勉強した人ならば知っているだろうが、犯罪根絶戦略としては‘掃討’ではなく生計型犯罪予防次元の民生対策こそ最適だ。
ソマリアの場合には、至急必要なことは人質の命を危険に露出させる賭博型 ‘救出作戦’ ではなく外勢干渉の遮断とイスラム主義勢力など有力反対派との妥協、国家再建と漁業の復興であろう。 さらには ‘掃討作戦’ の過程で海賊が殺害される場合には、これはその作戦を行った国家所属の船員らに対する今後の復讐を意味することになるだろう。 今、李明博政権は ‘好材料’ だと快哉を叫んでいるけれど、今後いつかアデン湾で復讐にあうかもしれない罪のない海運業労働者の生命に対して若干でも気を遣ったりするのだろうか?
血は血を呼ぶだけだ。 貧困と雇用不安に苦しめられ危険千万なアデン湾へ船に乗って行かなければならない国内船員であれ、子供を食べさせるための糊口の策として海賊船に乗るソマリア漁民であれ、その生命は同じように尊く、同じように害してはならないものだ。 2500年前に聖人が 「勝利を喜ぶことは殺人を喜ぶことと同じだ。勝利して帰ってくる軍を葬式を行うように迎えなさい」 とした(<道徳経>、31章)。 この言葉に照らしてみる時、やむを得ず海賊となった貧乏人8人を "成功的に" 殺したからと、うれしくて大騒ぎをする私たちを果たしてこれからも "人間" と呼べるだろうか?
人間に生まれつき備わっていなければならない慈悲心や生命に対する畏敬、皮膚の色と関係ない隣人愛は私たちに果たして残っているのか? 大韓民国国籍所有者であることが恥ずかしいばかりだ。 ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/461354.html 訳J.S