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[朴露子ハンギョレブログより] 韓国 - 体罰の政治

http://www.stami.no/原文入力: 2011/01/13 23:20(3342字)
 
朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
 
生まれたばかりの娘サラがただ今ミルクをたっぷり飲んで深い眠りにつきました。この小康状態(?)を利用し今週私がした学術的な体験をこのブログを通してとりあえず社会化してみようと思います。私は今、政府から与えられた2週間の産休中なので、原則的に労働をしてはいけません。しかし、今週初めに労働環境監督庁()の目を果敢に盗んで若干の職業活動を行いました。同僚たちと一緒にアジア教育における国民化と抵抗などを扱う大型プロジェクトを計画しノルウェーの学振に研究費を申請しようとしておりますが、それに備えて開かれた国際ワークショップに参加し私の研究テーマに関するプレ発表をしました。私がこのプロジェクトの中で研究しようと思っているのは、韓国の教育における軍事文化と体罰などの身体的な訓育の問題なのですが、今回報告したのは、つまり韓国における「体罰の政治」の問題でした。この報告では、見栄えはよくスマートフォンなどの最尖端の国際的な商売でお金を稼いでいる大韓民国のような国で依然として体罰が広く行われているということをまったく知らない同僚たちから相当な関心が寄せられましたが、ここでその大要を述べ、江湖の諸賢のご叱正とご鞭撻を仰ぎたいと思います。

どんな階級社会であれ、その構成員たちを社会化させる過程においては(支配者への)服従心などを育てるためにも、常に訓育の装置を多様に設定し利用します。非常に巨視的に見れば、ミシェル・フーコーの理論どおり、前近代の訓育は概して身体的な苦痛に対する恐怖を利用する一方、近代的な訓育は市場社会の中で競争しなければならない個々人の競争心を誘発させ自らを統制させる「自発的誘導型」により近いです。分かりやすく言えば、棒で叩きのめして「問題のある」者を半殺しにし、それを目にする人々をみな怯えさせるのが前近代ならば、授業中にあまり興味を持てず こそこそと私語をしたり、別のことをしている子供に向かって低い声で「ヨンスくん、君はこのままじゃいい大学に入れず、非正規労働者になるよ。非正規労働者の君の親の期待に背くことになるけど、本当にそうしたいのか。しっかりしろ!」などと話しかけ、貧困の鎖を断ち切りたいヨンスの身分上昇願望を刺激することは近代的な訓育法といえるでしょう。もちろん、今日の大韓民国においてヨンスがいくら国語や英語、数学の問題を解く天才になっても世襲的な非正規労働者の身分を逃れる確率は極めて低いのですが、未だに「頑張ればできる」という神話が生きているために このような「自発的誘発型の訓育」は充分に可能です。おそらくこの神話は当然10~15年後には消えてしまうはずですが、今のままで行けば、大韓民国の貧民街はすでにその時はブエノスアイレスやリオデジャネイロとほとんど変わらないスラムになっているでしょう。そうですね。その時は授業中にうとうとしているヨンスたちに向かって、「お前は君の親のように非正規労働者にでもなりたくないのか。麻薬密輸の暴力団になって撃ち殺されたくはないでしょう。それなら勉強しなさい!」などと言い聞かせればよさそうですね。

上の事例から分かるように、大韓民国は偉大で近代的な先進国らしく「自発的誘導型の訓育」を完璧に駆使しています。多くのヨンスやヨンヒは、眠気やおしっこの我慢、息苦しくて死んでしまいたくなる自殺衝動などを克服し、両親を泣かさないよう少しでも「認められる人」になるように、落伍者に転落し苦しみながら死んでいくことがないように、暗記とご機嫌取りの「模範的な品行」で一日14~16時間 勝負を掛けて奮闘します。ところが長期間の学習労動をほとんど同じように強いている近隣国―日本、台湾、中国―とは異なり、大韓民国は学習マシーンとなったヨンスやヨンヒたちの肉体と精神が少しでもおかしくなれば、容赦なく彼らに「鞭」という薬を強制投与します。少しでも管理者(昔の言葉では「先生」だったのですが、この古語を大韓民国で使うのは心苦しい場合が多いです)の指示に従わなかったり、それが少し足りなかったり、あいさつでも15度でなく5度だけ下げたということで「生意気」と見られたら、すぐに頬やふくらはぎ、太ももが痛くなるという記憶を脳に刻み付けるため。指示に従わなければ、すぐに大きな痛みを味わうという等式を完全に体に覚えさせるため。そんなことをしなくてもヨンスやヨンヒたちを「自発的な」恐怖に容易く陥れられるこの偉大な先進国で、どうして鞭のような かなり単純で後進的な道具がいまだにこれほど人気があるのでしょうか。韓国型の訓育はどうして前近代的な「苦痛に対する恐怖の誘発」と近代的な「競争心の誘発」とをこんなにマッチさせるようになったのでしょうか。この質問に答えるためには、とりあえず大韓民国の偉大な系譜を調べてみなければなりません。
 
韓国的な近代性の源泉ともいえる明治時代の日本では「近代」を旗印に掲げ、体罰をとても先駆的に国家的なレベルで禁止しました。1879年の教育令第46条に始まり1941年の小学校令第13・20条にいたるまで、明治期から昭和の戦争期まで、軍事主義が猛威を振るっていたにもかかわらず原則的に体罰はずっと禁止されていました。しかし、それはあくまでも「見栄えのする」近代の表皮に過ぎず、実際は日本の「皇軍」とあまり変わりなく学校でも体罰を加えようとする教室の管理者を引き止める方法などあまりなかったのです。植民地朝鮮においては一層体罰が激しく、法律的には「内地」における体罰禁止は「外地」(植民地)でも效力はありましたが、実際には民間紙らは1920~30年代に教室で非業の死を遂げたり不具になった朝鮮の子供たちの悲劇的な話を伝えています。先ず体罰を加えることにより朝鮮人の自尊感や抵抗への意志を挫けさせ、次いで恐怖に怯え柔順になった子供たちに忠誠心競争や学習成果の競争をそそのかそうとすることが植民地における教育官僚たちの意図だったのです。総督府の朝鮮人出身の教育官僚とともに、この二重的な(体罰+競争誘発)訓育制度は総督府の法統(統治権)を引き継いだ大韓民国にそのまま受け継がれました。北朝鮮の場合は若干の陰性的な体罰慣行は残っているものの、公式には共産主義の師範学が導入され体罰は違法になりました。ところが、大韓民国は当初から植民地時代より退歩してしまいました。植民地時代はたとえ口先だけであったとしても明示的な体罰禁止の法規はありましたが、韓国の教育法第76条は体罰を禁止も許容もしていません。ただ「慣行」ないし「社会通念」の問題として残してしまったわけなのですが、この「社会通念」を事実上 定義しているのは体罰関連の裁判における最高裁の判決などです。最近までの判決の論理をまとめてみると、興奮していない状態で「品格を維持」しながら たいした傷を負わせない「適当な体罰」(ビンタやふくらはぎ叩きなど)の行使はほとんど「合法」と認められてきました。そのようにして植民地的な二重の訓育体制はそのまま残存してきたのです。

韓国の資本主義は単純に「勤勉な労働者」だけを必要としているわけではありません。たとえ無制限の残業を指示されても抵抗しようともせず、過労やストレスで半殺しの状態になっても、そしてついには自殺しようとも「国内最高」の無労組企業を相手に闘おうなどとは考えようともしない、とても柔順でとても忠誠な奴隷たちがほしいのです。このような奴隷たちを管理する体制の性格そのものがまったく近代的なものではないために、奴隷たちを訓育する方法においても前近代性が当然必要なのです。そして確信をもって言えますが、「朝中東」は最後まで体罰禁止に反対し続けるでしょう。軍隊に劣らず教室の体罰も彼らの聖域なのです。

原文: http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/30918 訳GF