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[キム・ヒョスン コラム] 百年たっても変わらない理由

原文入力:2010-08-15午後10:44:16(1657字)

←キム・ヒョスン論説委員

福留範昭という名前を憶えている人がどれくらいいるか分からない。日本の活動家たちと研究者たちの有機的集いである‘強制動員真相究明ネットワーク’事務局長を引き受け精力的に仕事をし、韓国と日本の関連市民団体では大変な名士だった。大邱啓明大で日本語講師をし、シャーマニズム研究にも一見識があった彼は、韓国語が上手く集いがあれば司会を引き受けていた。通訳が不足すれば即席で穴を埋めた。

彼が光州民主抗争関連行事に参加し帰国した後、去る5月5日 突然亡くなった。健康に優れた方ではなかったが、60才で現世を去る程に悪くはなかった。彼の力量と親和力を考えれば本当に残念なことだった。

彼の訃報記事は国内総合日刊紙の中で<ハンギョレ>にだけ載せられた。当時、日本の新聞を直接見ることはできなかったが、インターネットで見回した記憶では<朝日新聞>だけに簡略な訃報が載った。私はこれが日帝強制占領百年をむかえる韓-日関係の正確な住所だと考えた。韓国と日本社会があまり記憶するほどの価値がない人物として取り扱う無意識の反証と見られた。

私は国恥百年を迎えハンギョレが連載する企画物を取材しながら少なくない日本人たちに会った。植民統治期のことを追跡しなければならない関係で、相対的に高齢者が多かった。それらの人々と話を交わしながら、遠い昔のこととだけ見なされていた‘差別用語’を聞いた。日帝時に朝鮮人を指し示した‘センジン’(鮮人),‘半島さん’等の表現がそのまま出てきた。今の北韓地域を指し‘ホクセン’(北鮮)という言葉を使った。差別是非が起きた敏感な用語という意識自体がなかった。

事実、普通の日本人にかつて朝鮮を植民地にして、その傷が今でも続いているということは関心対象ではない。日本で朝鮮人犠牲者たちの痕跡を訪ね歩いてみれば、胸が茫漠としてくる。そこそこの標示板一つすら殆どない。専門家の案内を受け説明を聞かなければ、何の事縁があったのか知る方法がない。それでは他の外国人戦争被害者もそうだろうか? 違う。英国、オランダなど連合軍捕虜犠牲者たちの追悼施設は結構ある。敗戦の時、戦犯追及にあうことを憂慮し、あわてて十字架塔を建てるなど急造したのだ。後から犠牲者の名前をぎっしりと書いた石碑が立てられた。

敗戦後、日本人の集団的記憶の中に忌まわしい朝鮮はまるごと消された。そのような二重性に恥を感じ数十年前から地域で強制連行実態調査に立ち上がった日本人たちがいる。これらは資料集を出す一方で、韓国の遺族たちを招請し講演会を催し、独自に遺骨返還運動を行った。これらの人々の努力で珍しくはあるが朝鮮人犠牲者関連追悼碑が立てられた。だが、日本政府は言うまでもなく地方自治体もこれらの活動を喜ばない。活動家たちが追悼関連記念物を建てようと公園の場所などの使用を要求すれば管理機関は常に断る。それで一人一人が寄付を集めて購入した、だからあまり目につかない私有地に追悼物が登場した。日帝時の用語で言えばこれらの人々は敵に同調する‘非国民’だ。

こういう非国民たちと韓国の市民団体が1年前から数えきれない程の会議を開き、今年の8月をどのように迎えるかを議論してきた。来る22日から国恥日の29日まで、韓国と日本で韓国・日本市民大会と付帯行事が開かれる。知識人宣言を騒がしく扱った韓国言論らは、市民大会関連記者会見発表は大部分が省みることもしなかった。我ら自らが別に関心がないのに、日本社会がこれらの声に耳を傾け根本的に変わることを期待できるか? 菅直人日本総理の百年談話がすっきりしない理由はここにある。

キム・ヒョスン論説委員 hyoskim@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/435184.html 訳J.S