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[カン・ジュンマン コラム] キム・ジンソクの‘汚れた哲学’

原文入力:2010-03-07午後09:14:29(1673字)

←カン・ジュンマン全北大新聞放送学科教授

"今日、新自由主義の名の下に無差別的で無制限的な競争が煽られていることは事実だが、反対に根本主義的自然概念はあまりに単純に競争を無視し白眼視しているのではないか? 文明的人間の間の競争と権力関係を過度に否定的・悪意的にばかり解釈したあげく、いかなる暴力もない純粋な共生,いかなる葛藤もない平和的共生だけを目的とする失敗が起きるのではないだろうか?"

キム・ジンソク仁荷大教授が最近出版した<汚れた哲学>(蓋馬高原)に出てくる言葉だ。驚くべき本だ。いや驚くべき著者だ。韓国の論客らは大部分、立場が分かれている。‘保守に対する批判’ないしは‘進歩に対する批判’を中心に活動している。保守が保守の問題点を指摘し省察したり、進歩が進歩の問題点を指摘し省察することは珍しい。保守・進歩の区分を離れ、どちら側にも‘常識’とか‘真理’と受け入れられる命題に対し疑ってみることを要求することも珍しい。キム・ジンソクはいつもそのような珍しいことをしつこくやり遂げる著者でありどうして驚かずにいられようか。

韓国社会が誇る‘パルリパルリ(速く速く)’の原理は知識人たちの文にもよくあらわれている。「いったいこの人の正体は何か?」と考えさせるほどの悩みを要求する知識人は珍しい。大部分が熱く速かに自身の正体を表す。あたかもすでに決まった軌道の上を走る試合をしているようだ。例えば競争を肯定すれば保守、競争を否定すれば進歩だ。「競争はするものの、どんな競争をしなければならないだろうか?」と問う知識人は珍しい。

鮮明な二分法を止揚し、両者の長短所を天秤で量り違う道を模索するのは汚いことだ。そのような悩み自体が汚く、いわゆる‘陣営意識’から脱退しなければならないことも汚い。誰かを指して汚いと罵る人に 「そういうあなたはどれほどきれいなのか?」と尋ねることは、汚いというより危険なことだ。イエスであればこそできることだ。キム・ジンソクの<汚れた哲学>はその危険なことを私たちにもやれないのかと誘惑する本だ。

その誘惑にしばらく乗ってみよう。各自、自らが考える韓国進歩陣営の代表論客十人を選び、彼らが競争に対しなんと話したか確認してみよう。私なりの分析によれば、競争に対する不正と批判を越え呪いの一辺倒だ。もちろん美しいことではある。しかし全く不便だ。彼らも競争を通じてその場に上がったのではないか。国家と民族を打倒しなければならない概念と考えるならば仕方ないが、今日 韓国がこの程度まで発展したのもやはり競争のおかげをこうむったのではないか。保守的な世の中を越え進歩的な世の中を作ろうとする試みも競争を通じてするほかはないことではないのか。

ところでなぜ競争を呪うのか? もちろん新自由主義的競争を呪うということかもしれないが、‘競争’という単語までごみ箱に捨てるなら、いったいどうして自分たちの夢をかなえろということであろうか? 世の中はもちろん、自分自身も汚いことを認めないために醸し出した錯覚ではないのか? ‘競争’を保守に献納した人々に有権者が何を信頼して票を与えることができるだろうか?

大企業の中小企業搾取が真の競争か? 学閥看板を巡り戦う入試戦争が真の競争か? ジャングルの法則に則る弱肉強食が真の競争ということか? 進歩は競争を否定するのではなく、むしろ真の競争をしてみようとして‘競争’を先行獲得しなければならないのではないだろうか? 進歩が既存の競争観を変えなければ韓国社会を弱肉強食型競争観を持った人々の手中に譲り渡す悲劇は今後も続くだろう。 キム・ジンソクの<汚れた哲学>から私が読んだメッセージだ。

カン・ジュンマン全北大新聞放送学科教授

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/408639.html 訳J.S