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[おい!韓国社会] 遠い山/キム・キュハン

原文入力:2010-03-03午後08:50:59(1638字)

←キム・キュハン<鯨がそうだった>発行人

<ソクプ(ままごと)>は遊び運動家ピョン・ヘムン氏がインドとネパールを往来し遊びに夢中になっている子供たちを撮った写真集だ。昨年この本を出して何人かの人から抗議メールを戴いた。本にはただ無表情でじっとしている子供たち写真がかなり入っているが、これがどうして遊びの写真かということだった。しかし、私がそのような写真を選んで本を発刊した理由もまた、いや私たちの現実ではそれこそが重要な遊びの写真だと考えたためだ。

テーマパークとか遊びキャンプとか、遊びも商品化した結果、少なくとも目と口を裂けるほど広げておもしろくて死にそうだという表情程度をしてこそ遊ぶ子供たちだなと思う。しかし速く強い遊びがあるように、のろくやわらかい遊びもある。一人で、あるいは友達と一緒に静かに座り、特別な目的も内容もなくゆっくり時間を過ごす姿こそ私たちが失った遊ぶ子供たちの姿だ。

何日か前、忠清道のある田舎の峠を越えたところで目にした風景に胸がしびれた。人里離れた家の縁側に2人の子供が並んで腰掛け、地面にまだつかない足をぶらぶらさせながら遠い山を見ていた。遠い山を見る子供を見たのはどれほど久しぶりだったのだろう。もし子供がアパートのベランダに座りしばし遠い山を眺めていたら あなたはどうするだろうか? その平和な風景を邪魔しないよう静かに微笑を浮かべ行き過ぎるだろうか?

人が複雑な存在であるのは人には魂というものがあるためだ。魂は言語で表現することも数値で計量することもできない真に曖昧な存在だが、魂がなければ人ではなく幸福というものも結局は魂の状態に左右されるということを私たちは知っている。いくらみすぼらしい境遇だとしても、魂が充満した人は物ともせずに幸せだ。しかし幸福の条件を一つももれなく全てそろえても、魂が欠乏した人は孤独で虚しくこれ以上生きていたくない。

からだが子供時代に成長するように、魂の大きさと深さも子供時代に成長する。おとなになっても宗教活動をしたりファーストフード店でハンバーガーを買うように色々な霊性プログラムを購入することもできるが、そんなことは魂の欠乏による苦痛を一時的に慰めることはあっても、霊魂の大きさと深さはなかなか変わらない。魂は子供時代の商業的にプログラム化できない遊びの時間に、のろくて意味のない時間に、奥ゆかしく遠い山を眺める時間に成長する。

韓国という国が李明博とか反李明博とか守旧とか改革とか、かなり熾烈に未来をもくろんでも、相変わらず希望が見えない理由は子供たちが早くして魂を去勢されるためだ。もちろん今日地球を取り巻いた新自由主義精神はすべての人に絶え間のない自己啓発を通じて競争することを要求し、その勝利の要件は人生を経済的基準でどれほど効率化するか、すなわち人生で霊的時間をどれほどえぐり取るかにある。しかし、新自由主義のそのような要求を子供たちにこれほど徹底して残酷に適用する社会は他にない。

子供たちは遊ぶ時間の大部分を私教育資本家らに奪われ、真に涙ぐましく確保した切れ端の時間まで狡猾な芸能産業資本家とゲーム産業資本家と通信産業資本家に根こそぎ奪われる。韓国人は牛を捕えて肉はもちろん頭の先から尻尾まで全て漏らさず食べてしまうことで有名だが、韓国の子供たちがまさに同じだ。韓国で教育とは、子供たちの魂が成長する時間を1分1秒も許さない努力を意味する。

私たちは子供たちを毎日のようにその残酷劇の中に押込めて話す。‘この無限競争の世の中で、私は子供の未来のために最善を尽くしている。’私たちにはまだ魂が残っているのか?
キム・キュハン<鯨がそうだった>発行人

原文: https://www.hani.co.kr/arti/SERIES/57/407950.html 訳J.S