原文入力:2010-01-20午後10:03:55
←イ・テスク慶煕大史学科教授
‘ODA’や‘PKO’がどういう言葉かご存知ですか? 仮にも大学教授の私もすぐには識別することができなかったので、その意味を知っている方は非常に博識な少数グループに入ると言える。ところでそのような単語をよどみなく使うだけでなく‘ジョブ・シェアリング’(job sharing)とか‘ミー ファースト’(me first)のような英語も付け加えて話す人がいるならば激励次元で‘英語の達人’と呼んでも良くないだろうか?
しかし、こういう英語が大統領が年初に一年の国政方針を国民に明らかにする席で動員された事実の前には‘英語の達人’云々する気持ちが皆逃げる。たとえ大統領は演説中にG20を敢えて‘ジートゥエンティ’と読みヨーロッパ連合の代りにEUという英語の略字を使って英語の実力を自慢したようだったが、その実力を称賛するつもりもない。
大統領の新年国政演説で英語使用を問題視する理由は、それがちょっと使ってみたと言うような枝葉的な懸案ではなく、文化的政治的深刻性があると見るためだ。李明博政府になり、英語を重視する風潮が英語狂風という深刻な文化的疾病に深まったところには大統領職業務引継ぎ委員会時期から現れたイ大統領の‘英語偏愛’によるところが大きい。イ大統領は外国でも機会さえあれば、英語演説文を読んでいる姿がテレビに映る。他の政治家も‘俺だって’とばかりに外国に行き英語演説文を読むので、イ大統領はその部面で流行を先導した形だ。
しかし大統領を始めとして我が国の政治家が外国に行き英語演説文を読むことに何か利点があるのか全く分からない。‘私英語上手いでしょう?’と外国人の評価を追う姿勢が問題であるのに加え、英語常用者の外国人が演説内容は別にして上手いからと‘英語が上手ですね’と評価するはずもないためだ。
この点は英語の実力が優れた金大中前大統領の場合にも確認された事実だ。1980年代、金前大統領が全斗煥政権の圧迫を受け米国に追い出された時、私はバークレー カリフォルニア大で彼の講演を聞いた。それこそ立錐の余地なく集まった聴衆の前で、金前大統領は英語で書かれた演説文を読んで降りて行った。私は彼が韓国民主化の正当性と方案を提示するだけでなく、東北アジアの緊張緩和効果まで説明する段で、その幅広い視野に感服した。ところが周囲である米国人が苦しむようにつぶやいた。‘演説文を配付すれば良いのに、それをなぜあえて英語で読むことに努めるのだろうか?’金前大統領の英語発音がリスニングに相当不都合だったためだった。
聴衆が金前大統領の英語実力を確認したのは、英語演説すなわち英語朗読ではなく、引き続いた質疑応答で韓国語で話す時だった。通訳を志願した韓国人が金前大統領の返答を通訳し、戒厳令という単語が思い浮かばない場面で、金前大統領がそばで "martial law, martial law" と助けた。通訳を助ける金前大統領の姿に聴衆の間に愛情と尊敬の笑みが広がった。
李明博大統領の新年国政演説に登場した英語について投じたい質問は‘大統領様の英語を理解できない人は国民の中に入れてもらえないのですか?’だ。付け加えれば、イ大統領が新教長老だというので一層想起させたい事実がある。新教の宗教改革では帝国の言語であるラテン語の代りに、各地方土着語を神と疎通する効果的言語として掲げた一種の言語革命が核心的要素だという事実だ。そして私たちの大統領様に次の通り助言を差し上げる。国内では深刻な政治的問題を起こすので英語を使わないと、外国に出ても有能な通訳を採用し英語を使わないと、更には新教の神との疎通にも英語を使わないと。
イ・テスク慶煕大史学科教授
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/400130.html 訳J.S