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[カン・ジュンマン コラム] ‘李明博批判’を越えて

原文入力:2010-01-17午後09:14:29

←カン・ジュンマン全北大新聞放送学科教授

この間、多くの知識人がインターネットによる‘自己検閲’効果を指摘してきた。インターネットで厳しい目にあうのが恐ろしいとか煩わしいと考え、論議の余地がある主張は最初から避けることになったということだ。知識人がそんなに心が弱くてどうすると舌打ちする人々もいるだろう。そうかと思えばインターネットで人身攻撃に遭遇すれば反対に一層気分をよくして自分の所信を攻撃的に明らかにする知識人も多い。その覇気は尊敬するに値する。ところで問題はそのような‘強心臓知識人’だけが大声を出す世の中になってしまったという点だ。こういう現象が私たちの公共コミュニケーションに及ぼす影響は何だろうか?

‘強心臓知識人’は大部分が強い理念的・党派的色彩を表わすので、各自強大な支持勢力を率いている。敵と見なされる人々から非難を受ければ友軍の支持がさらに熱くなる。いくら厳しい目にあっても、そのような‘徒党争い’の原理上、俗っぽく言えば損することはないということだ。‘強心臓’と自己反省は原初的に相性が合わない。敵を鋭く攻撃する時に支持者の血は沸き、自己反省はむしろ支持者らを追い出す結果を招くはずだ。

私自身もやはり強い党派性を持っている時には‘強心臓’に属したが、党派性の限界と醜い面を見た後で自己省察を唱えるようになり‘心弱派’に変わった。中間的立場を熱く支持する人々もいないので非難されても所信を披瀝する動機付与にもならない。それで胸の中深くにしたい話があっても、じっと我慢する。いつのまにか「38度線一人で守るか」という笑い話が私の座右の銘になってしまった。皆が狂っていく時には沈黙するのが最上と信じるようになった。

今、韓国の公共コミュニケーションはまさにこの罠に陥っている。市場原理上、自己省察が不可能にされているということだ。新聞も同じだ。保守・進歩を問わず、全て‘強心臓新聞’だ。相手側を攻撃することだけにすべての情熱を注いでいる。いや、今李明博政権とその徒党が何かことをしているというのに、そうして両側非難論を展開するのか?と怒る読者が少なくないだろう。

ところで人々に個人的に会って話をしてみればまったく違う状況だ。今このような形で進んでも答が出てこないというところに同意する人々がはるかに多い。なぜ改革・進歩勢力は前回の大統領選挙と総選挙でみじめな敗北をしたのか? それも李明博とその徒党のためなのか? この問いは最初から提起されることもない。

自己省察をほどほどにはするのかと思われたが、盧武鉉前大統領逝去以後すべてのことがひっくり返ってしまった。李明博とその徒党に対する怒りと憎しみだけが唯一の代案でありビジョンとなってしまったような感じだ。逝去直前まで、盧前大統領と親盧勢力が負わなければならない責任と関連して、鋭い批判を降り注いだ進歩新聞まで何の説明・解明もなしに急変してしまい、盧前大統領を美化し彼の精神を継承しようと叫ぶ前衛隊になってしまった。

李明博政権の‘表現の自由’弾圧だけが恐ろしいのではない。私が見るに、現在の改革・進歩勢力は自らかけた催眠と自分欺瞞によって、より大きな弾圧を受けている。公企業を亡ぼしたのが李明博政権なのか、金大中・盧武鉉政権なのか? 言論・学界にいて政・官界に進出した改革・進歩人士の中で何が問題であり自身の誤りは何だと明らかにする人は何故一人もいないのか? 改革・進歩的な市民運動が弾圧を受けていると叫びまくる前に、この間政府と大企業の助けで気楽に生きてきた過去を反省してはいけないのか? 私は<ハンギョレ>紙面で李明博批判と共にこういう議題をたくさん扱うのを見たい。

カン・ジュンマン全北大新聞放送学科教授

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/399483.html 訳J.S