原文入力:2010-01-08午後09:13:09
←ファン・ヒョンサン高麗大仏文学科教授,文学評論家
十数年前に私たちの社会にしばらく波風を起こした英語公用化論は今は静かになったが、その生命が完全に切れたわけではない。下げた頭をまた持ち上げるために常にその機会を狙っているばかりでなく、ことによると社会的議題になりにくいやり方ですでに上半身を持ち上げているようだ。何よりも大学で行う英語講義を念頭において言うことだ。数何前から私が所属する大学をはじめとして名のある大学が先を争い英語講義の比率を高めていて、学校外でもその割合で大学を評価しようとする風潮が現れた。私としてはその弊害が少なくないと見ており、ややもするとすでに危機を体験している我が国の人文学が崩壊の危機に立つこともありうると考える。その兆しはすでに現れている。
英語講義が大々的に施行され始める時、その内容が不十分なことを心配する声が多かったが、本質的に重要な問題は他のところある。真っ先に心配しなければならないことは、学問活動と韓国語の関係だ。誰でも分かるように人間の知識と考えは、それがどんなものであれ結局は言葉で整理され、話を通じて最も効果的に伝えられる。その上、話は整理と伝達の手段であるだけでなく考えと知識を発見し作り出す踏み台なので、結局は知識と考えそれ自体とまで言うこともできる。考えが発展し知識が積もれば話も発展する。私の場合を例にあげるならば、私の専攻分野で先輩教授たちが半世紀前に書いた本を今読もうとすれば、フランス語や英語で書かれた本を読むよりさらに大変な時がたびたびある。それは先輩たちの能力が不足しているというよりは、当時の韓国語が彼らの知識と考えを盛り込み励ます準備ができていなかったことにより大きな原因がある。その後、私たちの社会は知識に対する情熱が非常に高く、学問が短時間に少なくない発展を成し遂げ、韓国語も成長する側に大きく変化した。社会の発展がそれに力づけられたことは言うまでもない。今、重要な論文と講義が専ら外国語に頼ることになるならば、この発展は中断されるだろう。いや中断されるばかりではなく、ついには朝鮮時代のように諺文の地位に落ちるだろう。
ある集団が長く使ってきた言語、例えば母国語はその言語使用者の生活と文化全般にわたり測量できないほど多くの経験を蓄積している。外国語に依存する講義はこの深い経験を利用できないということにも問題がある。学術活動は研究行為と教授行為に分かれるというが、講義も研究行為の重要な部分だ。講義する人は授業を準備し、その糸口だけ捕まえた考えを講義中に学生たちと共同主体となり考える中で、その考えを整理発展させ新しい意見を作り出す時が多い。これは誰もが持っている母国語的直観のおかげだ。外国語講義がこの直観を完全にあきらめているということは、その講義が主にプレゼンテーション形式で成り立つということがその証拠だろう。(もちろん外国語講義を徹底した教案準備の一方法として利用する教授がなくはないという点も明らかにしておく。)外国語講義は教授と学生が共に自分の考えを発展させる現場となりにくい。
何らか不当なことについて‘それは平等の原則に背く’とも‘ある人は高麗人参の根を食べ、また別の人は白菜の根を食べる’とも言える。だが、その二つの話は具体的効果が違い、その前に私たちの身体の反応が異なる。‘高麗人参の根’と‘ハクサイの根’が学術活動の道具として使われることは難しいだろうが、どんな先端思考も、どんな繊細な話もこの根に至っていなければ、学問は少なくとも人文学は死んだ学問となる。この事態を社会的悲劇といわざるをえない。
ファン・ヒョンサン高麗大仏文学科教授,文学評論家
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/397926.html 訳J.S