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[ソン・ハンヨン コラム] “これがみなイ・ミョンバクのせいだ”

原文入力:2009-01-07午前12:35:38

ソン・ハンヨン記者

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キム・ヒョンオ国会議長は顔が固まっていた。閉じられた国会出入り口を回って駆け付けたウォン・ヘヨン院内代表は汗を流した。キム・ヒョンオ議長が取ってくれたティッシュで汗を拭いた。キム・ヒョンオ議長が重く口を開いた。
“政治は対話と妥協だ。最善を尽くした後に歴史的評価を受ける覚悟はできている。”

ムン・グクヒョン,ウォン・ヘヨン院内代表も短く一言ずつ言った。ホン・ジュンピョ院内代表は目をとじて聞くだけだった。5日午後、国会議長執務室で国会議長と3党院内代表会談はそうして始まった。

年を越して続いた国会の異常な進行事態は大韓民国の水準をそっくり表わしてくれた。予算関連法案が期限までに国会を通過できず全体国民が損害をこうむることになった。

ハンナラ党は172席の多数議席を持っても無力感を味わっている。 ホン・ジュンピョ院内代表は党から悪口を途方もなく食らった。希望した長官職も遠ざかっていった。民主党と民主労働党議員たちは‘不法占拠’という汚名をかぶった。ウォン・ヘヨン院内代表は‘紳士’イメージにたくさんのひびが入った。メガネもこわれた。

キム・ヒョンオ国会議長,パク・ケドン事務総長は刑事告発にあった。 党役員・補佐官たちと国会警衛・警備員数人がケガした。国会取材記者たちも何日間もぼんやりと夜を明かした。ストライキと集会に出た言論労組組合員たち,ソウル警察庁機動隊は汝矣島の‘激しい風’に吹かれて余計な苦労をした。

皆が被害者であるわけだ。いったいなぜこのようになったのだろうか? 加害者は誰であろうか?

ある議員が答を出した。「これがみなイ・ミョンバクのせいだ。」何年か前の流行語である‘これがみな盧武鉉のせいだ’をまねたのだ。 じっくり考えてみると笑い流すことではなかった。

85ヶ法案の大量処理は初めから不可能なことだった。ハンナラ党議員は「12月初めに発議して、常任委審議も通さない言論関係法案を職権上程で処理すれば誰が納得するか」とした。「メディア発展になぜ言論人でなく政治家たちが命をかけなければならないのか」とも言った。そうだ。

もちろんハンナラ党議員の中には本当の所信派も結構いる。彼らの忠実な気持ちは認める。しかし反対する議員も多い。それで自由投票をすれば良いと? なぜそうするか。冷酷な大統領権力に対抗して反対票を投じる与党議員はいない。

このような事情を見回したキム・ヒョンオ議長が職権上程を躊躇するや、大統領府からは‘背信者’という単語が飛び出してきた。普段、礼儀正しいキム・ヒョンオ議長もかなり怒ったという。彼の側近たちは「国会が大統領府汝矣島出張所だと思うか」,「今が國家保衛非常対策委員会時代か」とぶつぶつ言っている。イ・ミョンバク大統領はなぜこのように独善的なのか?

過去の場面をしばらく思い出してみよう。1996年12月26日明け方6時、国会本会議場 ‘労働法電光石火’を敢行した新韓国党議員155人中にはイ・ミョンバク議員もいた。他の人たちと共に立ち上がり座ることを繰り返して6分間で11ヶの法案を通過させた。政策委議長イ・サンドク議員もいた。国務委員資格で出席したハン・スンス副総理兼財政経済院長官も本会議場に座っていた。‘帝王的総裁’時期だった。

それから12年がすぎて‘機械的に賛成する人’であった一人は大統領になり、他の一人は‘お兄さん’になった。国務委員は総理になった。 隔世の感だ。イ・ミョンバク大統領はひょっとして当時の‘帝王的総裁’を懐かしがっているのではないだろうか? 両親に殴られて育った大人は子供に暴力を振り回しやすい。

‘やれば出来る’は昔、軍人や建設会社のスローガンだった。政治には‘やってもできないこと’,‘やってはいけないこと’がある。環境変化に適応できない生物は絶滅する。それが自然の道理だ。分からないのなら悟ってもらわねばならない。

ソン・ハンヨン選任記者 shy99@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/331701.html

原文: 訳J,S