原文入力:2009-08-23午後10:23:15
←キム・ヒョスン論説委員
この頃、大学生たちは現代史事件を時代順に配列しろという問題を最も嫌うという話を大学で歴史を教えるある教授から聞いた。例えば5・18,6・29,5・16,4・19を時期的に早い順に書けといえば、迷う学生たちが多いという。その時代を体験した世代と教科書で習った世代の認知敏感度が同じはずがない。
私たちの現代史の中央にいた金大中前大統領は今や歴史の中の人物になった。長年、記者として見守った立場でいくつか頭の中に彫りこまれた場面がある。第一に、話すことをそのまま書いても記事になる数少ない政治家のひとりだった。1960,70年代でも野党スポークスマンの中には声明書一つまともに作成できず、出入り記者が代わりに書いていちいち入れ知恵することさえ珍しくなかった。彼はそのような時期にも‘名スポークスマン’として名高かった。
第二に、権力機関、特に情報機関の弾圧を彼ほど苛酷に受けた政治家は類例を探すのが容易でない。彼は長い間、DJと呼ばれてきたが中央情報部やその後身である国家安全企画部の工作文書には徹底的にKTという略称で記載されている。DJのように大衆になじんだイメージではなく、不穏勢力の温床と規定する自己催眠の一環と考えられるほどだ。
第三に、彼の苦痛と受難とが国際的支援運動を促進し逆説的にノーベル平和賞を受けることにも大きく寄与した。拉致事件が起きた時、救援運動に立ち上がった日本の少壮政治家や学者との縁は今まで続いている。85年総選挙を控え米国亡命生活を清算し帰国した時、著名な海外の人々が大挙同行した。そのような接待を受けた韓国の政治家は彼が唯一だろう。
第四に、退任後にも自身の名前がついた図書館やアジア太平洋平和財団を基盤に精力的に活動した。外国の著名な財団や大学から招請を受け海外講演も何回も行った。なぜ他の前職大統領はそのようにできないのだろうか? この頃の用語で言えばコンテンツの差があまりにも大きいためだろう。DJの側近パク・チウォン議員は盧武鉉大統領の在任末期「60代年齢の大統領が退き、その長い余生をどのように送るのか想像が出来ない」と私席で話したことがある。盧武鉉の急な悲劇的死がとても残念だ。
最後に1987年の大統領選挙に言及せざるをえない。日本の有力出版社である岩波書店の社長を務め、月刊誌<世界>の編集長として影響力を行使した安江良介という人がいる。90年代初期、彼に初めて会った時<広辞苑>という有名な日本国語辞典を贈呈された。彼は自身の名前を辞典に書けば、後で入国する時に本を押収されるかも知れないとして特異にも白紙に名前を書き辞書の中に挟んでくれた。彼はDJの日本滞留時期、陰に陽に多くの支援を行い韓国情報機関の集中監視対象だった。DJは帰国後、政治的山場の度に彼に諮問したという。ある日、安江は私に87年の両金分裂と関連してこういう話をした。当時の情勢から見て、DJが譲歩することが長期的に役に立つと考え、こんこんと意見を伝達したがそうはならなくて残念だと言った。DJも生前にこの問題と関連して、自身がさらに不当に攻撃を受けたと話したことがある。安江,DJ 皆今は故人となった。
キム・ヒョスン論説委員hyoskim@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/372702.html 訳J.S