原文入力:2008-12-29午後09:49:03
キム・ジンソク/仁荷大教授・哲学
高等学校1年の息子が結局自主退学をした。入学してまもなく自主退学させてくれとせがんだ子供だった。優劣班編成・0時間目授業に頭髪検査までして子供たちを殴る‘情けない’学校を子供は嫌いだったし、学校をやめて子供の母親も理解はした。そのような学校は自らやめることができると考えながらも、私たちは簡単には同意できなかった。両親の気持ちはそんなものだった。
それでも私は子供に条件をつけて同意したことはあった。「勉強のほかに君がしたい違ったことが見つかれば、あるいは最小限ほどほどの大学へ行ける程度の成績を出すなら同意する」と話した。しかし、やりたいことが見つからない子供にそれが見つかったら学校を止めても良いという言葉は何の役にも立たないということを新たに悟っただけだった。
また数ヶ月間、子供と綱引きして、その渦中に私は自ら不安と恐怖を感じなければならなかった。大学をきちんと出ることができなかったり、最小限他のうまくできることがなければ生きていきにくいということを‘事実’として話しながら、本当は私自身が心配して恐れをなしていたので。私は妻以上に相対的に不安と恐怖から抜け出せずにいた。結局、私は子供の自主退学に同意した。 子供が学校をやめる日、私は一日中自分自身の中の不安と恐怖を追い出すのに穏やかに忙しかった。それらにかろうじて対抗しながら私は感じた、両親自ら現在の競争システムが誘発する不安と恐怖に立ち向かわなければならないと。それでこそ子供たちもその不安と恐怖から抜け出すことができると。そうでなければこの教育戦争は終わらないということを。
狂った教育に対する進歩的批判そのものが私たちの社会にないわけではない。いや、そのような批判は相当に多い。最近では教育問題でゼネスト水準の革命的態度を要求する話も結構ある。しかし今回私が経験して感じたところはそのような‘革命的’要求とはちょっと違う。知的な批判では充分でないということだ。イ・ミョンバク政府が学校を投資と賭博システムに荒々しく追い込んでいるのは事実だが、それでも政府政策のせいにだけしたり教育体制に対する巨大論理的批判だけでは大きく変わることがなさそうだ。両親自ら‘恐怖の文化’に立ち向かわなければ恐怖の文化は変わらないだろう。政府が公然と助長し、また利用するのもまさにこの恐怖の文化ではないのか?
もちろん不安な社会でも子供が勉強が得意ならば両親が安心して喜ぶのは十分に理解できる。しかし両親たちが不安と恐怖に捕われて、自分の子供がただ良い大学行くことだけを内心望むのならば、恐怖の文化は長期持続するだろう。特に話としては教育体制を批判する進歩的な両親たちも、ただ自分の子供らが勉強できることだけを望んで喜ぶならば? 教育に対する知的な批判は知識人の利己的誇示に終わるだろう。話では批判した私も事実はおくびょう者であったということだ。
子供はこれからも二者択一人生を模範的に追求する信念はないかもしれない。今はただ恐怖の文化が嫌いで逃げるということかも知れない。それでも良いと,私は自身にい聞かせ続ける。子供が自ら学校を止めた後、我が家も今やおかしな家になったと話す私に、妻はそして友人も言った。「何が変?それが正常だろう。」
事実私の話もまさにそれだった。特別に傾いて生きても良いという意味だった。 キム・ジンソク/仁荷大教授・哲学