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[世相を読む] 3・1運動1年,ロウソクのあかり1年/ハン・ホング

原文入力:2009-05-17午後08:58:05
←ハン・ホング聖公会大教養学部教授

去る5月2日はろうそく集会が始まって丁度1年になる日だった。清渓広場に座り叫びをあげたことがほんの数日前のことのようだが、春雨の降る広場は寂しいばかりだった。李相和が生きていたならば恐らく ‘奪われた広場’ にも春はくるのかと歌っただろう。1年になったからなのかロウソクのあかりに対して色々な評価が出ている。ロウソクのあかりで火傷をした者たちが言い散らかす言うまでもない話はそれとしても、1年前楽しくロウソクのあかりを掲げた人々の中にもロウソクのあかり後遺症に対するいろいろの話が出ている。そのように多くの人が声をそろえて叫んだけれど何も成し遂げたものがなく何一つ変わらなかったという点が人々の心を深く傷つけたというように見える。再びこういう状況が起きても今度は出て行かないという人も少なくない。

ロウソクのあかりは成功した運動だったか? 私にも何人もの記者が電話をかけてきて意見を聞いた。私は返事の代わりに質問を投げた。「3・1運動は成功した運動ですか?」記者たちはもちろん成功した運動だと答えた。しかし1920年3月1日にも人々が3・1運動を成功した運動だと評価しただろうか? 朝鮮が独立したか、民族が解放されたか、数千名の犠牲者を出しただけではなかっただろうか? しかし3・1運動を30年後に評価するならばどうだろうか? 歴史の長い流れで見る時、ある運動の成否を計るのに1年というのはあまりに短い時間だ。

ロウソクのあかりと比較する時、3・1運動は短期的にも多くの成果を上げた。日本帝国主義者などは朝鮮民衆らに謝りこそしなかったが、統治方式を変えた。いわゆる武断統治から文化政治に切り替えたのだ。ロウソクのあかりに対しありとあらゆる侮辱的な言葉を浴びせる<東亜日報>や<朝鮮日報>もこのようにして生まれた。

ところがイ・ミョンバク政権は恐ろしい速度で逆走行をして ‘武断統治’ の時期に回帰している。日本統治輩でさえ開いた言論の自由は急激に蹂りんされている。イ・ミョンバク政権はロウソクのあかり関連者を最後まで追跡し起訴している。ロウソクのあかり関連で起訴された人が1000人を越えたという。乳母車を押して出てきた母親たちが調査されないか、‘PD手帳’関連者がぞろぞろ逮捕されないか、ミネルバが拘束されないか、ロウソクのあかり直後の警察と検察は忙しい限りだ。3・1運動後、上海などの地に亡命した独立活動家や熱血青年たちが一年程過ぎた後、国内に戻り何の問題もなく過ごしたのはいったいどの太平の時代の話だったか? 今イ・ミョンバク政府がしていることは一言で言って日本総督府よりも幼稚なものだ。だから恥ずかしい。

運動も相手がいる問題だから、あくどい奴に会えば当然な変化も短期間に引き出せない可能性はある。しかし焦ることはない。3・1運動のおかげで上海臨時政府が樹立され、<東亜日報>,<朝鮮日報>も作られたが、私は3・1運動の真の成果は別のところにあると考える。人、即ち3・1運動を体験した人々が変わったということだ。もちろんその時も直ちに独立を成し遂げえなかったことに失望し挫折した人も多かった。しかし、日帝時期の独立運動史を勉強して見た人ならば、3・1運動の体験がどれほど骨の中深く人を変化させたかを痛感しただろう。3・1運動がなかったら絶対に生まれることができなかった人々が3・1運動の限界を踏み越えて新しい運動を繰り広げた。3・1運動の特長は、準備された選手たちだけが参加した義兵運動や愛国啓蒙運動とは異なり、それこそ市場に買い物にきた身分も名もない平凡な人々が濃く政治的覚醒をすることになったという点にある。ロウソクのあかりに参加した人々も同じだ。まだ心のロウソクのあかりを消さずにいる人々、彼らが新しい歴史を書いていくだろう。

ハン・ホング聖公会大教養学部教授

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/355377.html 訳J.S