原文入力:2008-12-21午後10:44:25
クォン・テソン記者
←クォン・テソン論説委員
“今私たちのとても辛いんです。胸が張り裂けそうだから私たちの中心になって先生ちょっと返してください。”
“今日みたいに無念でくやしくて悲しい日は…これ以上遭いたくないんです。”
“先生と私たちは同じ気持ち、お願いだから先生を私たちのそばに送り返して下さい~~~!!!!”
恥ずかしくて申し訳ないな。一斉試験に対する選択権を与えたという理由で罷免・解職された先生らを返してくれ、小学生の君たちにそこまでやらせてしまったとからだ。君たちは言う。「私たちが何も分かっていない訳じゃない」と。今、罷免・解職された先生は「私たちに対する情熱が格別な方」だし「私たちの命みたいな人、いやそれだけじゃない」そいう方だったと。また教育当局が公務員として誠実と服従の義務に違反して国家試験を邪魔したという厳重な罪目を突きつけても、それが学校を去らなければならないほど大きい誤りではないと。
20年前にも先生を奪われたお姉さんお兄さんたちがいた。授業時間に私たちの周辺の現実を教えたという理由でチェ・ジョンスン先生が罷免されたし、続いて真の教育のための教員労組運動の碇を上げた先生たちもぞろぞろ解職されたでしょ。当時のお姉さんお兄さんたちは校門の外に追い出された先生たちを真の教育紙飛行機で応援した。その先生たちをはじめとする多くの人々の努力で教員労組は合法化され私たちの社会も民主化された。いや、民主化されたと思った。それで私たちはつかのま産業化と民主化を共に成し遂げた国だと自慢もした。ところが違っていたんだな。幼い君たちが涙を流して通りに出なければならないほど、まだ根をおろすことが出来ない幼い民主主義を私たちはあまりにも過信したんだな。
学校は社会構成員として共有しなければならない規範や価値基準を持った市民を育てる所だと言われる。それなら学校で教えなければならない核心価値は生命,平和,正義,人権,寛容,連帯など社会で一緒に生きていくのに必要な価値にならなければならない。君と私が敵ではなく、この世を共に育てていくパートナーであることを教えなければならないってことだよね。
しかし現実の学校でこういう価値は文字としてだけ存在する。学歴または点数が最優先の価値になってしまったからだ。こういう状況で教育の主体の生徒も先生も立つ瀬がなくなったし、学校は決して楽しいところになれなかったんだよね。現政権の教育政策を主導したというイ・ジュホ前教育科学文化首席が<平準化を越えて多様化へ>の中で「学校は教師たちが自由に教えて子供たちが楽しく習う所」でなければならないと主張したのもこういう現実のためだったからよ。彼は学校が楽しいところになろうとするなら、政府官僚の画一的統制と干渉に依存する方式から脱皮して「個別学校に最大限自律を与え、生徒一人一人と個別学校の多様性を最大限尊重しなければならない」と言った。この政府が自律を重要な政策目標として前面に出した理由だったんだよ。
ところが、今日の事態は彼らが言う自律が見かけだおしであることを暴露した。この政府が許す自律とは、先生たちが校長の許可なしには父母に手紙一枚書くことができなくて、一斉試験の問題点を指摘して正しい教育について一緒に考えてみようと話せば教壇から追い出されなければならない程度だったんだよね。既存学校をこのように縛り付けたまま、‘特定の自律’学校を作れば良いというのが彼らの自律だったんだ。こういう現実の前で、君たちの先生のように少数の先生だけが声を出したし、恥ずかしいことに大部分の大人たちは目をとじて私の子供だけが競争で生き残れば良いと考えたんだな。
それでも勇気を失うのはやめよう、歴史は時には後退するように見えても結局は前進してきたんだ。私たち皆がまたまともな精神状態に戻って、力を集めれば君たちの先生をまた君たちのそばに送りかえして、私たちの幼い民主主義も守ることができるんだから。
クォン・テソン論説委員 kwonts@hani.co.kr