原文入力:2012/09/05 21:37(3284字)
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
最近東アジアは瞬く間に「紛争地域」になってしまいました。同じ米帝の軍事的保護領である韓・日間の「独島」をめぐる言い争いは概して一幕の外交的なコメディーにすぎないのですが(いくら争っているふりをしてみたところで、韓日両国は結局は米帝主導の軍事的連合の一員として残り続けるのです)、中国と日本の間の釣魚台(釣魚台群島ないし尖閣諸島)問題は遥かに深刻です。互いに軍事的なブロックの異なる中国と日本の間に地域的な覇権をめぐる緊張・葛藤が実際にかなりの水準に達しているからです。MBの「独島巡行」(?)が原発問題や景気の低迷などで瀕死の状態に陥っていた日本の右翼をここぞという時に立ち直らせ、新たなエネルギーを吹き込んだ彼らの「黄金の機会」だったのですが、日本の右翼が本気で「戦争」の可能性を考慮しているのは中日関係の問題です。拉致問題を口実にした日本国内における「北朝鮮悪魔化」作戦も、巨視的な次元では窮極的に対中国戦略上の問題に属します。北朝鮮が東アジア、東南アジア全域にとっては中国の唯一無二の完全な同盟国だからです(中ロ関係は同盟というより遥かに緩く、ミャンマーやベトナムさえも最近はやや親米的傾向を仄めかしており、モンゴルは中ロ米の間で均衡外交をしている模様です)。
東アジアでは、1979年以来規模のある戦争はなく、中国は2007年以降日本の最大の貿易相手国であり続けてきましたが、「近い経済的な関係」の裏面に常に蟠っているのは、国家間の緊張なのです。普遍的なレベルからもなくはありませんが(全世界的にみた場合、西欧式の国民国家体制なしには資本主義への転換は不可能だったはずです)、特に東アジアでは「国家」が近代的な「資本階級」を生み出したのであって、資本家たちが国家を作ったわけでは決してありませんでした。(朝鮮侵略の先頭に立った)日本第一銀行や東京証券取引所を作った渋沢栄一(1840~1931)にとって伊藤博文をはじめとする藩閥政府内の後ろ盾がいなかったら、彼は果たして「日本の資本主義の建設者」の象徴になりえたでしょうか。金宇中(キム・ウジュン)の父が朴正煕の先生でなかったら、私たちの知っていた「大宇財閥」が立つことができたでしょうか。国家が大資本家たちを作っていく過程は、ちょうど今中国では進行中でもあります。近代的な支配階級が国家によって誕生するため、国家間の領土紛争などが全社会を牛耳る主要な政治的な焦点として浮上するしかないのです。
東アジアの国々は支配階級の「中核」であると同時に、欧州では珍しいほど被支配者たちを完全に包摂したりもします。民衆を包摂する最も正統な方法は、もちろん教育や(官辺の議題が支配する)保守メディアを通してですが、ほかには職場関係においても「国家」は(激しい争議に出た)労働者たちを弾圧する主体であると同時に、労働者が最後に頼る「保護者」であるかのように振舞ったりもします。たとえば、日本の「終身雇用制」を見てみましょう。この制度は法に定められているわけでもなく、かといって、比較的脆弱で資本に飼いならされた日本の労組たちの「力」に頼っているわけでもありません。これは結局、1950年代以降の司法機関による労働者解雇関連事件に対する「判例」などの総合に基づいて成立したものです。今まで下された判決は、労働者側の特別な欠点や会社の倒産などといった特別な「状況」がない限り、正社員に対する「正当な理由のない」解雇を不法とする内容のものです。最近は非正規労働が急激に増え、労働者全体の3分の1を占めるようになっているものの、少なくとも正社員に関する限り、この判例などは相変らず有效であり、彼らの雇用は原則上「終身雇用」として見なされているのです(日本では依然として一つの職場に務める平均年数は約12年です。正社員・非正規雇用をすべて含めてです)。つまり、「雇用」が「命」の日本社会において(司法機関に代表される)「国家」は「雇用の保護者」という仮面をかぶっているのです。
大韓民国は大きく異なっているでしょうか。不当解雇された労働者たちが絶望的な闘争を繰り広げながら、普通また一面においては「政治的解決」を期待し、政治圏に訴えたりするでしょう。みんな国家が彼らの階級的な敵対者たちの「総事務所」のようなものであることをうっすらとお気付きのはずなのに、いつの間にか政治圏以外にはどこにも頼るところがないのも事実です。双竜車の解雇労働者たちが死に物狂いで闘争していても、だからといって、現代車の正社員たちが一緒に連帯ストを行いラインを止めるわけでもないでしょう。同じ労働者たちの間の連帯がここまで未発達の世界では、残された道はあらゆる要求を「国家」に突きつけることです。悪徳企業のような私立大学が「無益」な人文学を軽視したら、人文学者たちが「人文学の危機」を訴えたことも国家権力者たちに聞いてもらうためであり、その訴えが功を奏した結果がHK(人文韓国)のような大型国家プロジェクトだったのです。だから、国家システムの管理を(極右的な色彩の濃厚な)嶺南マフィアが引き受けるのか(もう少しリベラルのように見える)湖南マフィアが引き受けるのかという問題をめぐって、たった今皆が興奮状態に陷っているということです。それほど国家と個人の関係は絶対的なのです。
私たちの社会は国家に立ち向かう能力を失い、国家と包攝ないし癒着関係に徹底的に縛られているのです。だから、国家の対外的な紛争行為などに対しても異議を申し立てることもできず、ただ「私たちの代表チーム」を応援するように、積極的であれ消極的であれ、支持をしたり、生活問題で忙しいので無関心で一貫するのです。このような状況を、私たちの階級が変革的に打開することはできないものでしょうか。「国家」を越える一つの方法といえば、他の国家、何より近い隣人である北・日・中の民衆たちとのより近い連帯なのです。日本の非正規労組と韓国非正規労組たちが互いに連帯訪問し合い、お互いをとりまく状況を認識し合い、韓国の労働活動家たちが中国へ行って鴻海精密(Foxconn)などの殺人的労働搾取と大量自殺の現場を見て回り、草の根レベルで労働運動の熱誠者たちに遭ってみれば、東アジアの地形が少し変わってきはしないでしょか。「上」の国境に関係なく「下」の民衆的ネットワークが生まれてくれば、私たちが皆で狂った支配者たちの民族主義的な煽動や戦争ごっこに立ち向かえるのです。全教組が侵略の国旗である「日の丸」と侵略の国歌「君が代」を拒否する日本教職員組合の闘士たちとより積極的に連帯・支援し、『京郷新聞』のような比較的に親民衆的な色彩のうかがえるメディアたちが日本・中国における民衆闘争の取材により多くの力と時間を割けば、私たちは各々の「国家」を少しは相対化できるのではないでしょうか。私たちが共に生きるためには、このような些細なことから始めて「下から」国境を越えて手を取り合うことは良いスタートになるでしょう。
東アジアの近現代史では相互間に戦争と排除、「海外投資」による労働搾取とキーセン観光だけがあったわけではありません。中国・日本の同志たちとともに「無政府主義東方連盟北京会議」をつくり、共闘を準備し、日本官憲に逮捕され結局は中国の地である旅順の日本の監獄で死んだ申采浩(シン・チェホ)先生も近現代の東アジアのもう一つの姿を象徴しているのです。私たちは「民族主義者 申采浩」は知っていても、国際的、東アジア的な無政府主義革命家の申采浩をどうしてかくも知らないのでしょうか。
原文: 訳J.S