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[世相を読む] 太極旗と愛国歌/チン・ジュングォン

原文入力:2012/06/19 23:53(1731字)

←チン・ジュングォン東洋大教養学部教授

 ‘愛国’とか‘救国’とか、解放前後史にでも登場しそうな‘しゃっくり(愛国節)’が乱舞している。 この復古的言語嗜好は主に極右派や主体思想派から見出される。 互いに取って食べれずいらいらしたこの二つの勢力が同じように‘祖国’を愛すると喚き出す。

 事実、極右派と主体思想派にとって‘祖国’という単語はそれぞれ違ったものを意味する。 前者にとって‘祖国’とは‘国家体制’を意味し、後者にとっては‘祖国’は‘民族国家’を意味する。 結局、極右派であれ主体思想派であれ各自の‘祖国’に過激に忠誠をつくしているわけだ。

 極右派は民族を分けない。 その国家の主人が日本でも米国でも、彼らには忠誠をつくす‘国家体制’さえあれば良い。 反面、主体思想派は体制を分けない。 統一された‘民族国家’ならば、たとえその国家の体制が封建的全体主義でもかまわない。 主体思想派から転向したニューライトが‘植民地近代化論’で日本の植民主義を肯定的に評価するのはこのことと関連がある。 主体思想派であったが転向したセヌリ党のハ・テギョン議員も何年か前にした親日妄言で非難された経緯がある。

 反面、イ・ソクキ議員は愛国歌を否定する発言で世の中を苛立たせた。 遅まきながら自身の発言が自由主義的信念の表現であるかのように偽装したが、その妄言から私たちは分断された国の半分を決して祖国とは認定できないという彼の意地を感じる。党権派のイ・サンギュ議員は‘100分討論’でついに傍聴客の質問に答えなかった。 個人には思想と良心の自由がある。 だが、公人、特に有権者の志を代議しなければならない議員は別だ。 その自由を享受したいなら出馬してはならない。

 同じ論理で‘親朴’議員もやはり国家観の検証を受ける必要がある。 自然人として彼らはクーデターを革命と呼ぶ権利を享受する。 だが、自由民主主義憲政を否定するその考えを持った人が公人になることは許されてはならない。 極右派は自分たちが‘自由民主主義体制を守護する’と叫ぶ。 自由民主主義が何か分かっているのだろうか? 自由主義は各個人には国家も侵すべからざる権利を認め、民主主義は人民が統治する人民主権の体制を示す。

 ところで極右派は思想と良心の自由を否定する国家保安法で‘自由主義’信念を破壊して、李承晩-朴正熙-全斗煥と代を引き継いで独裁政権を称賛することによって‘民主主義’理念を否定する。 極右派こそが自由民主主義の本当の敵であるわけだ。 自由民主主義の敵がむしろ自由民主主義者の振舞いをするから、進歩陣営では逆偏向で自由民主主義という言葉自体を冷笑する傾向がある。 だが、本当に否定しなければならないことは‘自由民主主義’ではない。 極右派による自由民主主義の‘汚染’だ。

 極右派は進歩陣営が‘大韓民国’を否定していると非難する。 事実を言えば、私たちが否定するのは‘大韓民国’自体ではない。 李承晩が建て、朴正熙が肥らせ、全斗煥が救ったという大韓民国に対するあなた方の奇怪な‘解釈’だ。 憲法に明示された通り、大韓民国は独立運動の精神で建てられたし、献身して熱心に仕事をした民衆の労働で発展したし、民主化運動を通じて軍事独裁の鎖から救援された。 私たちが肯定するのはまさに‘こういう’大韓民国だ。

 太極旗も同じだ。 私たちが否定するのは太極旗ではなく、時をわきまえず太極旗を持てと強要する抑圧的な軍事文化だ。 強要される太極旗は国家の象徴ではなく特定の政権、すなわち独裁政権が私たちの口に嵌めたクツワに過ぎない。

 私たちが否定するのは朝会時間に無理に歌った愛国歌、全斗煥を連呼しろと無理に持たせたその太極旗だ。 私たちが肯定するのは80年錦南路(クムナムノ)に広げられたその太極旗、道庁広場に鳴り響いたその愛国歌だ。

チン・ジュングォン東洋大教養学部教授

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/538527.html 訳J.S