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[編集局から] 遺書事件カン・ギフンを生かせ! /キム・ウィギョム

原文入力:2012/06/10 21:26(1861字)

←キム・ウィギョム政治・社会エディター

 遺書代筆捏造事件のカン・ギフンが病んでいるという消息を聞いて病気見舞いに行った。 4人部屋の病室をしばらくきょろきょろ見回して彼を探し当てた。抜けるように白い顔にすらりとした体形だったが、どんよりして薄黒い顔色で少し曲がって立っているようだった。 目は落ちくぼみ、目の下の影は濃厚だった。 大きな手術を受けたと言う。 彼の口から「生存確率50%」という言葉まで出てきた。 事件が起きた時は29才であったのに、もう50才。彼の若さはそんな風にやせこけ枯れていっていた。

 だから21年前のまだひよこ記者の時の話だ。デモ中に死亡したカン・ギョンテの葬式を取材していると、ポケベルが騒々しく鳴った。 どうにかしてカン・ギフンを捜し出して新聞社に連れて帰ってこいとの指示であった。 ちょうどカン・ギフンが葬儀行列にいたので、彼の手を引っぱった。 会社の先輩はいきなりキム・ギソルの遺書を指差して書いてみろと言い、カン・ギフンはふらふらと書いて見せた。 その時にも私たちは事態の厳重性を悟ることはできなかった。 「オイ、そういえば書き方が似ているよ」という冗談も交わされた。

 その後一ヶ月を超えて明洞聖堂で座り込みをしながらも彼の表情は平穏だった。 ある日などは 「あまりにも私を韓国のドレフュス(Dreyfus)だと言うので、遅まきながら本を読んでみたが全然違うよ。 それは100年前の話で、私はユダヤ人でもないじゃないか」と言った。

 だが、彼は結局ユダヤ人に劣らない偏見の対象‘在野運動圏’だった。 拘束され、3年間服役した。 以後、彼の人生は胸の中の凝りを解くための苦闘の記録だった。 多くの辛酸と苦難の末にようやく2009年ソウル高裁から再審の許諾を受けた。 しかし検察が直ちに再抗告し、事件は最高裁ヤン・チャンス最高裁判事に配当された。 そのようにして待つこと3年、だがまだ全く便りがない。

 弁護士がはやく決定を下してほしいと嘆願書を提出したりもしたし、記者たちが取材次元で進行状況を調べてみようともしたが、最高裁は一言の返事もない。 カン・ギフンの弁護士は「今すぐに有無罪を明らかにしてくれというのではなく、再審を始めるか否かを決めてほしいということなのに、なぜこんなに長くかかるのか分からない」と苦々しい顔で語った。 聞こえてくる話ではヤン・チャンス最高裁判事が研究官に事件検討を任せることもしないまま記録をキャビネットに使わずにしまっているという。

 ある判事は「この事件は関連判事がまだ健在で、司法府が直接介入した強度が高く、決定を下すのに負担を感じているようだ」と話した。 実際、1審ノ・ウォンウク、2審イム・デファ、3審のパク・マンホの担当裁判官全員がヤン・チャンス最高裁判事のソウル大法大の先輩たちだ。 特に「物証はないが、状況証拠から有罪が認められる」としたノ・ウォンウク裁判長はヤン最高裁判事のソウル高 直系先輩だ。 また、1970~80年代のスパイ捏造事件は検察、警察、安全企画部の拷問のせいにすることもできるが、90年代のカン・ギフン事件は最終責任者が司法府だという批判から自由でないのだ。

 その間にカン・ギフンは病を患った。解けない無念さ、相次いで両親をあの世に送った自責感、経済的窮乏が彼のからだを蝕んだ。 定期検診だけでもまともに受けていれば、早くに異常信号を識別できたはずなのに、工事現場の肉体労働を転々としたりもしていた彼の不安定な生活はそのような贅沢を許さなかった。 病院で会ったカン・ギフンは 「21年前のその事件以後、私には一度も良いことがなかった。 特にその事件が起きた5月になれば、からだと心が全部痛くて」と話した。 カン・ギフンの病気を診たある医師は「ストレスが免疫力を弱化させ、それが病気を悪化させた」と話した。

 カン・ギフンは手術を受ける直前に弁護士を訪ねた。 最高裁に診断書を提出して、一度だけでも最高裁判事に会わせてほしいと要請するためだ。 彼の最後の頼みに最高裁がどのように答えるのか気になる。

キム・ウィギョム政治・社会エディター kyummy@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/536943.html 訳J.S