全国のすべての寺院にあふれる派手な提灯からしてむなしく見える。本来提灯は半夜などといって知恵の灯を意味する。衆生の愚かさに灯を照らして三悪を解消するという意味だ。しかし闇を照らす灯になるどころか自ら三悪の罠に陥った一部の僧侶の醜い姿により曹渓宗(チョゲチョン)は満身瘡痍になっている。仏教界に社会的非難がわきおこり、ただお釈迦だけを信じて黙黙と修行する僧侶まで下賤に見られかねない残念な局面だ。
曹渓宗の中では最近、懺悔、責任、刷新などの声が相次いでいる。しかしわき起きる批判の数々に比べて手についた刷新策は特別なものではない。全てのものを捨て去るという覚悟も、「逃げ場のない瀬戸際」の厳しい決意も見られない。いまだにみじめな言い訳と自己詭弁ばかり出てくるだけだ。
今回の事態のチャスン総務院長からしてそうだ。チャンスン僧侶が率いる曹渓宗の執行部は発足当初から自省と刷新を呼びかけていたが結局その対象はまさに自分たちであることが分かった。チャスン総務院長は毎日懺悔の108参りをしているというが一般人もよくする108参りぐらいで今の事態を収拾できるのか疑問だ。彼が‘鶏にも劣る僧職’に対する執着と未練を捨てたかも気になる。
戒律を無視する風土の一大刷新は曹渓宗が当面の最も切実な課題に浮び上がった。曹渓宗の護法部長という方が放送番組で "花札は一部僧侶の遊び文化" という話をすることからして戒律に対する緩んだ意識を端的に見せる。これでは仏教界がまともに直ることはない。戒めを受けるべき時に、仏様に誓った戒律を使い古した履物のように投げ捨てて何もなかったかのようにやり過ごす風土がこれ以上容認されてはならない。
曹渓宗は今や重大な岐路に立っている。慢性的な弊害にあげられてきた総務院の権力化、宗派内の派閥争い、財政の不透明さや僧侶の世俗化、寺院の営利化を今回の機会に正すか、でなければ永遠の奈落に落ちるかの別れ目だ。お釈迦の誕生日をむかえて曹渓宗は禅堂の清浄性を回復して仏教の真の姿を取り戻すという誓いを仏様の前でしなければならない。そして直ちに実践しなければならない。
原文: 訳T.W