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[朴露子ハンギョレブログより] 革新の限界

http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/47115

原文入力:2012/05/16 20:25(3411字)

朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学

 私は早くから「統合進歩党」の結成過程そのものを階級的な立場からの離脱の過程と見ていたため、昨今の「統進党事態」を目の当たりにしてもあまり感情の動揺はありませんが、多くの方々にとって「暴力を振るう進歩」はとてもいたたまれないイメージとして映し出されているようです。たとえ急進的な進歩とはいえないものの、それでも「革新系」を母胎とする勢力がいったいどうして「テコンドーの技」を常に誇示する既成の国会議員たちにかくも早く似てしまったのかという嘆きの声が至る所で鳴り響いています。その嘆きの心境は十分理解できますが、一つだけ覆い隠せない真実を私たちは直視しなければなりません。「統進党」は最早革新からは程遠くなっていますが、たとえ革新だとしても火星から到来したエイリアンたちではないということでしょう。革新は、それでも時代の限界を乗り越えようと意識的に努めますが、同時に「今ここ」の限界を抱え込んでいる存在でもあるのです。「ここ」で生まれ育ち、学校に通い軍隊に入り、「上下」構造の中で「自分の居場所」を見つけ、あれこれと妥協を繰り返しながら食い繋いでいる人間は、いくら気持ちは「ここ」の時代的な限界を乗り越えようとも、体は「今ここ」に属しています。そのため、それだけ「我々」の一般的なレベルを飛び越えるのは大変だということです。「統進党」の場合は、階級的な立場を捨て、高学歴出身の中産階層に自分たちを「売る」中で、特に従来の道徳さえも急激に下落し、南韓の一般的なブルジョア政治以下のレベルを満天下に示しましたが、このような「堕落」の極端なケースではなくとも、革新には明らかに時代的な限界はあるものです。私たちが革新に属していると認識しているだけに、その限界を直視しなければなりません。

 今日の大衆的な革新の母胎は第1次大戦以前のドイツ社民党といえるでしょう。ヨーロッパで「社会主義」を初めて一階級のイデオロギーとして捉えたほどの多大な功績を残した党でした。戦争以前には約百万人の党員を擁していたドイツ社民党は、たとえば主要な工業の社会化を求めていたほど、その時までは明らかに「社会主義的」でした。ところが、合法的に活動していた党の影響力が大きくなればなるほど、ドイツの労働者たちの被る福祉恩恵(初歩的な形の失業手当等々)だけが増えたわけではありません。次第に官僚主義化しつつあった党は、その闘争相手だった「国家」に似ていきました。カウツキーなどの「指導者」たちに対する崇拜に近い態度は、ドイツの小市民が普段「国家」に対して抱く「尊崇の念」と大きな違いはありませんでした。社会主義的な原理原則から離れ、国家の敏感な部分 -たとえば国民皆兵制や対ロシア戦争の準備、そして植民地掠奪など- には最早口をつぐんでしまった党は、遂に第1次世界大戦を防げなかった一方、1918~1919のドイツ革命の急進化についてはあまりにも見事に防ぎ、有産層の支配の砦の役割を担うようになったのです。時代的な限界を脱したくとも脱しえない「合法的な社会主義運動」により、結局はその時代的な限界を代表するかのような旧体制の「番人」になったのです。同じく国家や軍隊だけは常に仰ぐ組合や党官僚の保守性は「社会主義的な信念」に勝ってしまいました。

 最も急進的な革命家にとっても時代の限界を脱することは極めて困難です。レーニンの急進性は誰も疑いませんが、晩年のレーニンもテイラー主義(「科学的経営」 -主に労働時間管理の合理化と持続的な労働生産性の向上をはかること)を「社会主義の基礎」と捉え、「ソビエトとテイラー主義の結合」を「社会主義」と勘違いするほどに技術科学万能主義的な幻想に陥ってしまいました。その妄想事態はあの頃の一般的な西欧知識人の普遍的な「通念」に近いものでしたが、その通念が革命家の意識の中に流れ込めばこれは極めて危ないことになります。果してレーニンだけが20世紀初めの普遍的な技術万能主義に感染されていたのでしょうか。中産層知識人出身が多い「オールド ボルシェビキ」たちもそうでしたし(メンシェビキたちは実はもっと酷かったのです)、あるいは労働者出身の党員と言っても生活水準の向上などに対する期待からこれに従うといった雰囲気でした。そのようにして、スターリンの反動化以降は「スタハノフ主義」という美名の下に、ソ連でも労働者に対する過剰搾取、実績競争を煽る雰囲気が復活してしまいました。革新がこのように保守的になってしまうのはあまりにも悲しいことではないでしょうか。

 はっきり言えば、私たちが目の当たりにしている「統進党」の「党権派」の限界はカウツキーやレーニンより深刻でこそあれ決してマシではないでしょう。さらに最近の自由主義者たちとの無原則的な妥協からは果して限界以外に何が残るのかと自問してしまいます。その限界は、文化的な限界と社会政治的な意識の限界に分けて分析することもできるでしょう。暴力の行使に対する「寛容な態度」(?)などは明らかに韓国社会の軍事主義的な雰囲気、軍事文化と関係があります。クォン・インスク先生などのフェミニスト学者たちがよく指摘しているように、男性優越主義的な軍事文化は80年代の革新系の中に流れ込み、革新系を母胎に組職を作り軍隊を彷彿させる「組職社会」で生きてきた左派民族主義者たちには暴力的な習慣がかなり体質化してしまったのも事実のようです。「文化的限界」といったのは、まさに以上のような体質化したハビトゥスなどのことです。ところが、女性主義者などといった様々な「新しい革新勢力」たちの省察と改善への要求により少しはよくなった「文化的な限界」より遥かに危ない限界はまさに「社会政治的な限界」です。資本主義に対する代案をまったく見出だせない、せいぜい張夏準(チャン・ハジュン)風の「朴正煕時代のような資本に対する国家統制」などを主張する韓国社会の「一般」と同じく、「統進党」などの自由主義化した過去の革新系メンバーたちは資本主義に対する根本的な代案の提示をあきらめて、資本主義に対する「修正」のファンタジーにこだわり続けているわけです。すでに4年が経った世界恐慌はいかなる資本主義的な方式でも -予算の削減を柱とする新自由主義的な方式であれ、国家主導の施設、工業投資のような新ケインズ主義的な方式であれ- まともに克服できずに悪化の一途を辿っており、今や世界資本主義の一つの核心地域かつ修正資本主義のショーウインドーである欧州連合が崩壊する可能性さえあるにもかかわらず、韓国の「革新」は無計画な利潤追求式の、個人投資家所有の財閥経済こそが清算されなければならないということを見ようとしません。私たちはまだ無意識的に韓国資本主義の「成功ストーリー」を信じ、この「成功」が永遠に続くだろうと考えているようです。

 資本主義的な迷夢にとらわれているのは私たちだけの問題ではありません。欧洲の最も急進的な大衆さえもまだ「資本主義問題」を本格的な話題として捉えようとはしていないようであり、ただ「1%の貪欲」だの「強盗のような金融資本」だのといった非科学的で道徳主義的なレトリック水準にとどまっています。最近の選挙結果を見ても、ギリシャの総選挙で唯一の真に反資本主義的な勢力である共産党は8.5%しか獲得できず、フランスの大統領選挙では急進的な資本主義に対しやや懐疑的な左派連合・新反資本主義党・労働者闘争党の候補たちはすべて合わせても約13%にとどまりました。社民主義的な修正資本主義に対する様々な幻想からの解放には時間がかかります。問題は、危機進行の速度からすれば、私たちには時間がないかもしれないという点です。まだ薬物治療で解決しうる問題は、状況が一層悪くなれば手術でしか解決できない問題に悪化するかもしれません。そのため、革新としては「資本主義の肯定」という時代的な限界を自覚することは何よりの急務です。

原文: 訳J.S