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[暮らしの窓]権力と教育/キム・ジョンチョル暮らしの窓

原文入力:2008-12-12午後07:39:52
キム・ジョンチョル<緑色評論>発行人

羽仁五郎はファシズム体制との戦いに一生を捧げた日本の良心的知識人だ。彼は基本的に歴史家で教育者だったが戦争後には国会議員となり国立国会図書館を創設に主導的な役割を果たした。国立国会図書館創設の目的は、何よりも政府と官僚による情報独占を防ぎ国会議員と市民が豊富な情報と知識に自由に接近することによって正しい立法と政府監視活動ができるようにしようということだった。 彼は徹底した民主主義者として、民主主義になろうとするなら“政治が真理に立脚してこそ”できるという確信を持っていた。そこで彼は1948年に成立した国会図書館法の前門に“真理が我らを自由にする”という聖書の一節を引用・挿入し、この一節は今でも日本国会図書館廊下壁面に刻まれている。

しかし自身の念願とは異なり戦後日本政治は自民党長期政権と独占財閥の復活により、事実上ファシズム体制に回帰しているということがすでに1960年代以降に彼が下した判断だった。彼の見解では戦前戦後を問わず日本ファシズムを後押ししてきた核心勢力が教育官僚体制であった。彼は戦後政府組織が改編される時、陸軍および海軍省,そして内務省と司法省が解体されたように文部省も廃止されていなければならなかったし、今からでも当然廃止されなければならないという論理を生涯最後まで貫いた。彼がそのように熱心に文部省廃止論を展開したことは教育官僚らこそ偽りの論理に立って戦争と侵略を美化し民衆に対する思想的統制と洗脳作業を行ってきたファシズム体制の尖兵だったためであり、ひいては彼らが戦後になっても反省するどころか国民を単純に操作と統制の対象と考える全体主義的教育観に旧態依然として固執していると見たからだ。

今日、日本や韓国で学生と教師の人間的な主体性を認めず、彼らを単純な客体として、管理対象として見る教育観が清算されないでいるのは教育官僚らが嘗て‘教育の自由’を享有した体験がないためかもしれない。羽仁五郎はこの世の中に教育の自由ほど美しく価値あるものはないと一生考え続け、そうであるからこそ学生と教師の自由を抑圧し教育内容に絶えず干渉する官僚統制システムに我慢がならなかった。

教育の生命は自由にあり、真の学習というのは自由人ののんびりした時間でのみ可能だということは否定できない真実だ。強制的な学習は人権じゅうりんという側面でも問題だが、実際に何の実際効果もないことが明らかだ。それでも教育官僚らは果てしなく教師と学生らに不信を抱いて教育現場に対する統制を強化しようと腐心する。このように教育の自由を基本的に否定して教育現場の信頼関係を崩壊させていては、いわゆる国家競争力というものも空念仏で終わる公算が大きい。

韓国の子供たちは今日、教育地獄の中に住んでいる。この状況は数十年を超えて放置されているだけでなく、ますます悪化している。 教育という名前で現在強行されている蛮行は、育ちゆく子供たちだけでなく人間性に対する許しがたい犯罪だ。ここにはもちろん自分の息子だけを考える父母の‘宿命的な’利己心が大きな役割を果たしている。しかし根源的な責任は、国民一人一人を尊厳な人格を持った自由人として見ずに、せいぜい労働者,消費者,納税者,兵役義務者としてのみ見なす支配権力の視線にあるということは言うまでもない。官の方針にハイハイと従順にしないと、教師たちの首をあっさりと切る教育官僚らの姿を見れば、結局今日権力が願う国民とは奴隷や家畜であって自主的な人間ではないということが明らかだ。

キム・ジョンチョル<緑色評論>発行人

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/327367.html

原文: 訳J.S