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[文化‘ラン’] この建物を見た瞬間‘宝物だ’

登録:2013-06-28 22:42 修正:2013-06-29 21:43
新装なったソウル市立大建物 3棟
‘歴史ある未来’として蘇った真っ赤なレンガ造り建物
1.ソウル市立大 京農館は改善補修作業を経て‘歴史ある未来’の姿で生まれ変わった。 改善補修後の京農館中央ホール。 シン・ギョンソプ建築写真家 提供

76年前に建てられた古い3棟の建物
横浜赤レンガをモデルに
‘覆い’改補修から‘取り除き’で復元
モルタルと天井をはがし
昔のレンガと木造トラスの肌を露わに

ソウル市立大博物館など3棟の建物が70年余りの時差が共存する名所として生まれ変わった。 この大学のイ・チュンギ建築学部教授のリモデリング設計の賜物だった。イ教授は大学総長を訪ねて行き、この‘宝物’をうまく生かそうと説得した。

 ソウル典農洞(チョンノンドン)のソウル市立大。 正門から若干右側、現代式コンクリート建物の間に赤レンガ1階建の建物である博物館と京農館が並んでいる。 この二つの建物に入れば、しばらく深呼吸をしなければならない。 76年の歳月に逆らって時間旅行をしなければならないためだ。

 ドアを開ければ目の前にパッと開いた空間感の前で‘フ~’と深呼吸することになる。 吸気の一部は鼻の穴で嗅覚に触れる。「これは何の匂いだろう?」松脂の臭いだ。 松林に入ってきたようなこの匂いはどこから来るのか。 床を経て四方の壁でさまよった視線は天井に移ってはじめて答えが見つかる。 天井がなくなり屋根を支える三角構造物である木材トラスがむき出しで見える。 トラスの材木は角材で整えたのもあり、あるものは丸太そのままだ。 そうだ。 天井の裏に隠れていた木々が70年の歳月を越えて露出して松脂臭を漂わせたのだ。

2.リモデリング以前の京農館(展示室入口)。 シン・ギョンソプ建築写真家提供

 ソウル市立大ソウル学研究所などがある京農館と博物館、そして大講堂として使われる‘チャジャンマル(白樺堂)’、この3棟の建物はこの大学のイ・チュンギ建築学部教授のリノベーション設計で9ヶ月間に及ぶ改善補修工事の末に最近再開館した。 歴史ある赤レンガと黒い木のトラスがむき出しの建物内部は歳月の痕跡が積もった独特の雰囲気を醸し出す。 隠して整えた建物にはない、率直で機能的に作られた建物に自ずから生まれる構造的美が空間を覆う。

 京農館と博物館は元来、1937年京城農業学校の大学本部と講義室として建てられた。 殺気立った日帝が中日戦争に駆け上がった頃だ。 日本人建築技師の指揮の下、朝鮮人労務者たちが脂汗を絞りながらレンガを積み屋根を拭いたのだろう。 解放を迎え京城農業学校はソウル農業初級大学になり、以後ソウル産業大学、ソウル市立大学校へと名前が変わり規模も大きくなった。 最初に作ったレンガ造りの建物は一つ一つと消え、周辺には新しい建物が建った。 講義室を埋めた学生たちは他の建物に移り、大学本部も変わった。 講義室は孤独に博物館へと名前を変えた。

 そのようにして70年余りが流れる間に建物は古びていった。 京農館は展示室、収蔵庫等として使われ、白樺堂は講堂として使われ続けたが、後にはほとんど放置され演劇部の学生たちの練習室として使われていた。 屋根は雨水が染み、天井は汚れて落ちた。外壁は湿気を吸っては吐いて風化し赤いホコリを飛ばした。 垂れ下がった天井に補助柱を当て、砕ける外壁にはモルタルを塗った。 何度も改善補修をしたが、あちこち重ねて当てて直して使いながら建物は大きく変形し、学校内部からは古い建物を壊して新しく建てようという意見も出てきた。 結局、学校当局は大々的な改善補修をすることを決めた。

3.リモデリングした後、博物館(左側)と京農館外部の姿。シン・ギョンソプ建築写真家提供

 2008年この学校の建築学部に赴任した建築家イ・チュンギ教授は、このレンガ造りの建物を初めて見た瞬間から‘宝物だ’と感じ、以後注視してきた。 天井を取り壊し隠れていた木材トラスの美しさを表に出せば本当にすてきだろうという思いであった。 そうするうちに昨年のある日、学校がこの建物を改善補修することを決めたという話を後になって知った。

 当初計画は建物を覆った壁材をきれいに交換する方式だった。 イ・チュンギ教授は大学総長を訪ねて行き、この‘宝物’をうまく生かそうと説得した。 建物を過去の姿に近く復元し、歴史のある建物だけが持つ歳月が染みついた美をうまく生かすことによって市立大の歴史を感じさせようということだった。

 彼が説得のための例としたのは、日本横浜の‘赤レンガ プロジェクト’であった。 赤レンガは1911年横浜港に作った倉庫建物で、70年代に港が他所へ移動し機能を失い荒廃した。 横浜市では‘100年歴史のシンボル’という判断の下に1992年これを買いとって改善補修作業に入り、2002年文化空間兼商業建物として脱皮させた。 倉庫建物の構造をそのまま大事に保存し、レンガ建築の魅力をよく見せる赤レンガは一気に横浜最高の名物に浮上し、年に500万人が立ち寄り観光コースとなり、横浜‘トリエンナーレ’空間としても使われている。

 学校はイ教授の意見を受け入れて計画を変更した。 直接に改善補修を指揮することになったイ教授は、1年近く講義室と現場を往復し復元に近い補修に精魂を込めた。 天井の壁材は引きはがし、木材で一部の構造を補強しながら過去のレンガで化粧直しをして、内部壁体のモルタルを全てはがして洗い落とす困難で面倒な工事が続いた。 当時の図面がなく、いちいち現場で実測して判断して代案を出しながらデザインしなければならない大変な過程だった。

4.博物館内部の姿。 シン・ギョンソプ建築写真家提供

 天井を引きはがし木材トラスを見せることは美学的な選択だったが、構造的に負担を減らし安全度を高める代案でもあった。 天井材がなくなるとすぐに層高は高まり、建物の開放感はより一層大きくなった。 モルタルと壁材を取り払った赤レンガの壁はそれ自体がデザインになった。 建物が見せる時間の痕跡は1937年まで戻った。 使い道が少なくなり存在感がなかった3棟の建物は新しく生まれ変わり、再び市立大の中心となって人々が好んで訪ねる名所になった。 「時間の肌が露わになった瞬間の感動は、良い音楽を聴き終え、名画を見た時のような感じというか、むしろそれを跳び越える何かでした。」イ教授は当時の喜びをこのように表現した。

 「80年の時差が格好良く共存する姿を見て、壊して建て直そうという意見が静まりました。おそらく今後80年間はそのような話が出ないでしょう。 市立大人の故郷の役割をして、時が経てばまた誰かが悩むでしょう。 使う人々と共に生きることが建物の本来の姿です。」イ教授は3棟のレンガ建物が剥製となって大衆と遊離した遺物ではなく、人々が楽しく利用する建物として生命を続けることになった点が最もうれしく意味があると語った。 イム・ジョンオブ記者 blitz@hani.co.kr

https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/593552.html 韓国語原文入力:2013/06/28 17:29
訳J.S(3008字)