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[朴露子ハンギョレブログより] 政治家と政客の相違

登録:2011-11-27 11:55
http://blog.hani.co.kr/gategateparagate/39051

原文入力:2011/11/25 00:43(3148字)


朴露子(バク・ノジャ、Vladimir Tikhonov)ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学


かつて労働運動を率いていた方々が今や盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権期に反労働者的な政策を推し進めた柳時敏(ユ・シミン)氏などと手を握り一緒に結党するのを見ながら一つだけ私に明らかになったことがあります。政界で奔走する幾多の行為者の多くは政客ではあっても政治家ではないという点です。政客と政治家の違いは?とても簡単です。

政客の目的は直ちに実現可能な権力を分け合うことです。絶対的な目的が執権であるため、そのためなら世間の人々の思いつかない曲芸さえも敢行することでしょう。たとえば、1990年1月22日の三党合併後、金泳三(キム・ヨンサム)という政治行為者が政治家というより政客にほかならないという事実は満天下に暴かれました。いくら保守的な自由主義者だとしても、自由主義そのものをまともに認識することもできず、自由主義を弾圧こそすれ自由主義のために戦ったことのない民正党との合併は「政治家」ならおよそできることではありませんでした。結局、政客金泳三は執権に成功したものの、社会的に見た場合、その結果は何だったでしょうか。1995年以降の「世界化、国際化」の強硬な推進は今日の「狂った英語ブーム」現象、すなわち英語駆使力が階級を分ける区分線になる現象を生んだのであり、まったく準備もなく思案もない金融規制緩和は、結局IMF事態を可能にした一つの起爆剤になったわけです。1995~1997年、北朝鮮の人民たちが餓死し北朝鮮がその歴史上最も厳しい時期を過ごしていた際に、金泳三氏が北朝鮮の飢饉に対してまともな共済策を何ら取らず、国内における統一運動の弾圧に血眼になっていただけでした。これが間接的な大量殺人と呼ばずしていったい何と呼びましょうか。とにかく、政客が政権を握ると社会にとって良いことはないのです。これに対し、金大中(キム・デジュン)氏は -金鍾泌(キム・ジョンピル)との同床異夢的な同居はまさにその政客としての一面も示しているものの- 少なくとも自由主義的な原理にそれなりに忠実であったという点では真の政治家としての側面も持っていました。彼の執権は少なくとも対北和解政策や死刑執行廃止のような遺産は残しており、そのような点では彼は韓国の政界の幾多の政客たちとは多少なりとも区別される存在といえます。


政客は目の前の執権のために他のあらゆる考慮すべき点を捨象してしまいますが、政治家は今日より明日、明後日、明々後日、そして遠い未来まで眺められる人です。ある一定の状況が整えばロシアのように工業労働者が全体人口の2%にも満たないどうしようもない後進国でも労働者主導の革命が起こりうるということをあらかじめ予測し、議会政治などをたとえ利用はしても絶対視することはなかったレーニンのような人こそ「政治家」の見本です。彼は今日の「勢力」より明日の「可能性」の方を遥かに重視できる人でした。途中で敗北し政権獲得に失敗した政客たちを歴史学者でない正常な(?)人々は覚える必要もなく覚えませんが、失敗した真の政治家を私たちは多くの場合は敬っています。真の政治家は挫折しても彼のビジョンは後世に遺産として残るからです。曺奉岩(チョ・ボンアム)は刑場の露と消えても、彼が初めて見た福祉国家建設の夢は今ではほとんど全国民的な理念になりつつあります。革命家も政治家であるという意味では、申采浩(シン・チェホ)の場合も同じです。数多くの独立運動家たちの中で私たちが特に申采浩をはっきりと覚えている理由は果して何でしょうか。彼は単なる「日帝駆逐と民族国家樹立」でなく、全世界の被抑圧者たちの解放と無政府共産主義社会の建設を目指したのであり、その夢を『竜と竜との大激戦』のような本に盛り込んだからです。世界革命はその当時も今も「夢」の次元に属する事柄ですが、この夢は多くの人々にとって原動力となっただけに、挫折し獄死した申采浩のことははっきりと覚えているのです。 真の政治家の敗北もまた勝利であり得るということでしょう。


もしこのような立場で見れば、新進歩統合連帯の柳時敏のようなブルジョア政客たちとの合党は果たして「政治家」がするべきことだったのでしょうか。おそらく「議会進出の可能性」などの様々な確率を正確に計算をして成り立った一種の「打算的な同居」(?)のようですが、この政治工学的な計算が明日には有効であっても明後日からは無効になるかもしれないということを新進歩統合連帯の方々は気付くべきでした。彼らが「愛のない同居」(?)の名分として「福祉国家建設論」という綱領を掲げたものの、これは今の世界資本主義史の流れをまったく把握しきれていない、あまりにも機械的な政治的行為です。今やフランスにまで広がったユーロ圏の致命的な危機、次第に深まっていく世界恐慌の疾風怒涛の中でその利潤マージンを守ろうとする資本家階級は事実上存在する福祉国家さえも次第に大幅に破壊し、歴史の時計をほとんど福祉国家建設以前である1930年代に戻そうとしているのです。大学授業料3倍引き上げばかりか、今や公共医療体系さえも改悪させ民営医療業者たちの利益を増やそうとしている現在のイギリス政府のやり方を見ただけでも福祉国家が次第に形骸化していくのを実感することができます。もちろん、国によって政治的な事情などが異なるため、その速度は非常に相違していますが(ノルウェーの場合は福祉国家はほとんど損なわれていません)、大体の傾向ははっきりしています。支配者たちが福祉国家という1945年以降の大々的な譲歩を撤回しようとしている今日の状況においては、被支配者たちの闘争も止むを得ず激化せざるをえないし、そのスローガンも「福祉国家死守/新設」から結局「資本主義克服」へと一層急進化しなければならないようです。福祉国家のような労働者の民生の最小限の保障もしてはやらないという支配者たちなら、その支配者たちを階級的次元で打倒しようとするスローガンほど闘争の性格を良く反映したものはないでしょう。ヨーロッパの状況もこのように切迫しておりますが、氷水大砲まで動員し極少数の財閥のために韓米FTA強行を遂に撤回しようとしない国内政権の最近の蛮行だけを見ても、国内支配者たちが福祉国家建設を「そのまま」では許容しないという事実はすぐに気付くはずです。その最小限の譲歩を得るためにさえ体制全体を転覆させる覚悟を前提にする闘争が必要になってきますが、柳時敏のような政客たちとの「愛のない抱擁」(?)をしながらそのような闘争が果して可能でしょうか。まことに残念で仕方ありません。


今日のような状況で民衆の側に立つ真の政治家なら、「資本主義克服」という未来の闘争への志向までもしっかりと捉え組織建設などが成されなければなりません。全世界的に新自由主義が破産を迎えている状況で「資本主義克服」の見込みも鮮明に打ち出せないまま、新自由主義的な性格のブルジョア政客たちと連帯をするというのは致命的な誤謬にほかなりません。そうすることで一回くらいは国会に入ることができるかもしれませんが、一つの階級のリーダーになることは大変難しくなります。ああ、国内の保守政界はもちろん、進歩政界さえも政客でない政治家たちがどうしてこんなに珍しいのか、本当に大声痛哭したくなります。


原文: 訳J.S