原文入力:2011/11/24 19:30(1826字)
←パク・ノジャ ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
この頃、史学界で一つ波動が起きている。政権は歴史教科書に‘自由民主主義’のような冷戦期の宣伝標語を入れるよう圧力を加えている反面、大部分の史学者はこの反歴史的試みに対抗している。 実は一般人の健全な常識で見ても1990年代初期までは韓国に基礎的自由も民主主義もなかった。 運動圏前歴のために軍に連行され疑問死させられる‘自由’(?)はあっても国家的殺人の実体を明らかにする自由はなかったのだ。自由と民主主義は、最近数十年間にわたる多くの人々の途方もない犠牲の代価として私たちが徐々に手に入れてきた。 しかしこの頃の一連の事件を見れば私たちの民主主義が内実はとても不十分だと考える。さらには私たちに果たして民主主義があるのかという問を自身に尋ねるに至ったりもする。
世界人の絶対多数が生きている階級社会では実質的民主主義の核心的な基準は被支配者抵抗権の有無だ。支配秩序に対し名分ある抵抗を行う被支配者を懲罰することによってその活動を暴力的に遮断してしまう社会は、いくら多党制など形式的‘民主主義’要素はあるとしても実質的にははなはだ非民主的だ。例えばたとえ手続き的‘民主主義’はあるように見えても、被支配アラブ人らに対する容赦ない暴力を振り回す以上、イスラエルは実質的には民主国家ではない。 既存秩序に挑戦する被支配者の身体を拘束する社会は民主主義的装飾で偽装された既得権層の集団的独裁に過ぎない。
それでは韓国はどうなのか? 最近この国の既存秩序に最も意味ある挑戦状を投じたものは‘希望のバス’であった。 非正規職と下請け労働者、中小自営業所の労働者など約800万人の不安労働階層を差別待遇し超過利潤を絞り取ることによって労働階級全体を分断統治し弱化させる社会において希望のバスは "非正規職のない世の中" を叫んだ。 双龍(サンヨン)自動車労働者らのように命を差し出して戦っても整理解雇を撤回させられない資本独裁社会で希望のバスは "整理解雇根絶" を訴えた。 支配階級の利潤獲得および労働者統制のための最も重要な道具、すなわち非正規職量産と整理解雇を正面から問題化したものだった。ほとんど1年近い長期闘争の末に希望のバスの核心的当面要求である韓進重工業解雇者らの復職が争奪され、その問題意識は全社会に広がって行った。この頃、保守言論でさえも非正規職の量産を憂慮する程にこの問題はもはや労働界だけのイシューではなく全社会的イシューだ。それでは韓進(ハンジン)資本との力比べで多くの人々の連帯を得て、かろうじて勝ち、非正規職問題を世間に広く知らせた希望のバスに対する支配者の対応は何か?
案の定‘自由民主主義’念仏を日常的に唱える支配者は彼らに一番容易そうに見える方法を選んだ。 希望のバスを勝利に導いたソン・ギョンドン詩人とチョン・ジンウ進歩新党非正規労働室長を拘束したのだ。 談論的対決で希望のバス側に勝つことができず復職闘争で間違いなく敗北した支配者は結局、拘束という名前の露骨な暴力に訴えてしまった。 自発的に警察署に出頭した二人を 「逃走の恐れがある」として逮捕したのも、韓国労働運動史上最も平和的だったデモを導いた希望のバス組織者らに‘暴力行為など処罰に関する法律違反’容疑を適用したのも、今 韓国の支配者らの‘民主主義’水準をよく示している。
踏みにじられた者の側に立ったこと以外には何の罪も犯さなかった詩人を逮捕したことは、‘民主主義的’韓国で行われる国家暴力の一断面に過ぎない。 去る8月にはただのサークル会員たちに北韓書籍数冊を読ませただけで、北韓の立場に同調することもなかった‘資本主義研究会’会長に下した有罪判決は真の民主主義社会で想像できることだろうか? 労働運動次元でも対北韓問題でも、支配者らに‘立ち向かう’平民が無慈悲な司法弾圧を受けているのが韓国の現実だ。 私たち皆が抑圧者らに共に‘立ち向かって’良心犯の釈放と司法弾圧の中止を要求しないならば、この恥ずかしい現実は果たして変わるだろうか? ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/507016.html 訳J.S