本文に移動

[特派員コラム]‘スパイ キム・チョルウ’をご存知ですか? /チョン・ナムグ

登録:2011-11-04 09:15

原文入力:2011/11/03 19:29(1711字)


浦項(ポハン)製鉄所全体の絵を描いた彼が
工場竣工を控えて大物スパイになった


←チョン・ナムグ東京特派員


今はポスコに名前が変わり持分も半分が外国人に渡ったが、その前身である浦項総合製鉄は一時はその名前だけで韓国人の胸をジーンとさせる存在であった。 この会社は韓国が工業大国に成長するための脊椎骨のような役割を果たした。迎日湾(ヨンイルマン)の砂嵐と戦った創業期の職員たちの奮闘の話は何度聞いても感動的だ。ところでそのポスコが1965年 韓-日国交正常化過程で受けた対日請求権資金で作られたという事実を知る人はそれほど多くない。日本帝国主義によってあらゆる差別と搾取に遇い、命まで犠牲になった私たちの先祖の汗と涙と血の価格、日本に残った同胞たちを‘俺は知らない’と言って受け取ったその金でポスコは作られた。

浦項製鉄所設立過程で私たちはある在日同胞工学者にも大きいな金をした。キム・チョルウ(85)博士だ。東京工業大学と東京大大学院を出た彼は在日同胞として初の日本公務員(東京大研究教授)になった人物だ。 同胞たちの誇りであり希望だった。 ‘鉄しか知らなかった’彼は1968年から韓国の製鉄所設立と関連してあらゆる助力をした。 1970年からは韓国科学技術研究院(KIST)重工業研究室長を引き受け、製鉄所全体の絵を描いた。 浦項製鉄1号溶鉱炉を事実上設計したのが彼であった。 1971年からはポスコの丁重な要請で東京大を休職し技術担当理事として工場設立を牽引した。 ポスコの史料博物館には当時の彼の役割を示すパク・テジュン社長とやりとりした手紙が今も数通保管されている。


だが、彼は1973年の工場竣工を1ヶ月余り残して突然、保安司に連行された。 その年の6月5日付新聞は彼を‘基幹産業に浸透した大物スパイ’と報道している。 しばらくして彼に会うためにソウルに来た弟(北海道大学助教授)を含め4ヶ網スパイ11人を保安司が逮捕したという記事も新聞に載った。彼は結局スパイ罪で懲役10年を宣告され6年半服役した。日本の知識人らと在日同胞らの無罪嘆願が大きな運動を作ったが効果がなかった。維新憲法が公布されていくらにもならない頃のことだった。


日本で生まれ育った彼は釈放後、東京に戻り1980年に永久帰国した。ポスコで副社長待遇で仕事をし、今も韓国の中小企業を助けて過ごしている。 過去を記憶から多く消した彼に私は東京で数回会った。彼は1970年確かに北韓へ行ってきたと語った。 彼の長兄をはじめとする‘帰国船’に乗った兄弟に会わせてやるという人間の誘惑に嵌ったのだ。しかし北韓は彼を兄弟とは会わせなかった。彼を利用しようとした。もちろん彼はそれを断った。 それが全てであった。 だが、彼が北韓に行った事実はいくつかの肉付けすれば産業界に浸透したスパイとして作り上げるのに格好の材料だっただろう。彼は有罪判決を受け刑務所で手首の動脈を切り自殺を試みた。その時に生き残った後、彼は「全てをありのままに受け入れ誰も恨まないことにした」と語る。


在日同胞たちの中には彼のような不幸を体験した人が少なくない。約160人がスパイの汚名を着せられ人生が壊れた。日本で差別を受け祖国に捨てられたことだけでも足りなくて、独裁政権維持の犠牲にまでさせられた。数年前から彼らが一人二人つと再審を申請し真実が明らかになっている。 これまでに10人の再審が開始され、その内の5人はすでに無罪を宣告された。常識の目さえ開けば真実を発見することはさほど難しくないと私は考える。兄弟に会うために北韓に行ってきたこととスパイとして活動したことは天と地の差がある。キム・チョルウ博士にも裁判所が一日も早く再審開始の決定を下し、真実を明らかにすることを切に望む。 jeje@hani.co.kr


原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/503863.html 訳J.S