原文入力:2011/06/20 15:30(1802字)
怒りより煩わしさに心痛 悲鳴をあげろ‘勝つ戦い’のために
キム・ウンヒョン経済部記者
数ヶ月前、ある外食業者の記者懇談会がソウルのある大学校であった。どうして大学で外食業者の懇談会をするのかと思ったが到着してみると やはり業者が自慢したくなるほど高級なインテリアの広いカフェ型売り場が大学内に開店していた。
大型外食業者が大学キャンパス内に入ったのは昨日今日のことでもないので今更驚くことでもないが、売り場内を見回して1ヶ所に視線が止まった。展示型冷蔵庫内に一列に並び立っている黒ビール‘ギネス’だった。びっくりした。職場生活を十年越えた今でもビヤホールに行けばメニューを見て悩んだあげく概して 「ウン...私は…ギネ‥いやいや、やっぱりカース!(または、マックス、いずれも国産ビール)」と言うしし、レパートリーを繰り返させるまさにそのビールではないか。頭を上げてメニューを見ると値段も通常のビヤホールのメニューで見る価格と同等だった。
記者懇談会から帰ってきて、今 大学生ではなくて幸いだという思いに胸をなで下ろした。金を稼いでいる今でも注文するのがためらわれる高価な飲食を学校に通っている時節から‘食べたい’という欲望と‘食べられない’という現実的制約の間で葛藤したとすればどれほど疲れるだろうか。
高等学校と大学を卒業して進路が多様に決まりながら同窓や友人らの生きる姿も千差万別に変わった。仕事が忙しく、子供を育てるのに時間のひねり出しも難しいなどの理由で連絡が疎遠になった友人らもないではないが、暮らす姿が大きく変わって遠ざかった友人もいる。金を稼ぎ始めながら自ら困窮しているとか買えないほど高価な物を確実に所有したいとも思わないものの、高価格な名品にゴルフ旅行云々する友人と話をしてみるならば思わず萎縮してしまう。心が安らかでない上に互いに関心事も違うと連絡がまばらになるしかない。
堂々と所信を持って生きれば良いのになぜ萎縮するのかと批判もできるだろうが、それは慰労にも激励にもならない、ただうっとうしい訓戒に過ぎない。同じように2000ウォンのご飯を買って食べながらでも、いくらでも大学生活を楽しくすることができると話してみても、1万ウォンのビールと2万ウォンの食べ物メニューを努めて無視しなければならない子供たちの気が楽になる訳ではない。さらにはこれは名品やゴルフでもなく暮らしの問題だ。
←大学内にあるフランチャイズ コーヒーショップ. ユン・ウンシク記者.もし今私がアルバイトに追われ授業料を心配しながら生きなければならない普通の大学生であれば、こういう現実に怒るより先に煩わしいという気がすると思う。それぐらいの食事代1~2万ウォンでどうしてこのように焦りながら煩わしく生きなければならないのか。
煩わしいことは人を萎縮させる。大学授業料が過度に高くなったのは昨日今日のことではない。私もやはり4年前に大学院に入学した時、授業料告知書を見て登録を迷ったほどだった。ところで今になって学生たちが野火のように起きたのは、この間‘煩わしさ’で腸が煮えくり返る時間だったと思いたい。大韓民国で大学授業料の存在は大学と同じように当然のことなのに、それを処理できない自身または両親が煩わしく無能に感じられる精神的苦労をどれほどしただろうか。
別の見方をすれば80~90年代の大学生らの民主化闘争のように‘名分’のための怒りはむしろやさしい。しかし暮らしの問題による挫折感とそれによる侮辱感は、名分の戦いとは比較できないほど個人的な内傷が大きい。その傷が自ら耐えられないほどに高まり苦痛となったこの時点にきて、子供たちは飛び出し じっと我慢していた悲鳴を放っているように見える。今回の授業料闘争が‘勝つ戦い’になることを願う理由は、単に授業料引き上げの制動を望むだけではない。暮らしの問題の煩わしさと侮辱感で成人式を行わなければならなかった多くの大学生たちの内傷が癒えることを願うからだ。 dmsgud@hani.co.kr
原文: https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/483444.html 訳J.S